第10話  梨乃の場合  急坂を自転車で

文字数 1,309文字

泣きながら眠ってしまったらしい。
私はふと目覚めた。
時計を確認すると18時を過ぎていた。窓の外には夕方の空が見えた。
薄明りの黄昏時。
私は寝転がったままその空を眺める。

短い夢を見ていた。

私は山の天辺から下を見下ろしている。すごく高い。
私の前には一本の舗装された橋が見える。
よく沖縄の映像で見る、島と島を繋ぐ橋だ。
それはだだっ広い海を右と左に分断する一つの線だ。
私は晴れ晴れとした気分で空と橋と海を見渡す。海はエメラルドグリーンに輝き、どこまでも透明だ。
空は青く澄み渡り、水平線の向こうで海と交じり合っていた。
遙か遠くの方で小さな虹が見えた。

私は坂を見下ろす。
 坂は急だ。
冬に家族で行った岩原スキー場の一番下のゲレンデ、あの位の傾斜がある。
そして長い。
坂はずっと遠くまで続いていた。
この急斜面を今から自転車で走り抜けるのだ。
私は武者震いをする。

私はたった一人だった。家族も友人もいない。橋には車さえ走っていなかった。
私は自分を試す様な、何かにチャレンジする様な愉快な気分だった。
「行くぞ!」
私は自転車に跨ると、ペダルを踏んだ。
自転車は凄く早くて、まるで空を飛んでいるみたいだった。橋から飛び出して海に飛んで行ってしまいそう。どんどん加速する。恐ろしい位に速くなる。びゅんびゅんと風を切る。私はきゃーって歓声を上げながら走る。面白くて仕方がない。まるでジェットコースターだ。このまま海に投げ出されたら、無重力を体験出来るだろう。
ぽわんと体が浮いてどぼんと海に落ちる。それでジ・エンド。

長い坂を無事に下り終えた。
その余力で進んで来た所で、自転車を止めた。下から声がしたのだ。
私は橋の下を覗き込んだ。
橋の橋脚の所に砂浜があった。
砂浜は橋に沿って細く長く続いていた。

水着姿の家族連れがいた。
私は砂浜に降りる階段を探した。階段は見付からなかった。
父親と小さい子が二人。5歳とか4歳とかそんな感じ。男との子と女の子。
子供達は小さなバケツとこれまた小さなスコップを持っていた。
若いお父さんが言った。
「そろそろ潮が満ちて来るから、帰ろう」
そう言って子供達の手を引く。
子供達はもっと遊びたいらしい。ぱらぱらと勝手な方向に歩く。
それを追い掛けるお父さん。
お母さんの姿は見えなかった。
私は「お父さん、大変だな」と思った。また「こんな狭い場所じゃなくてもっと広い場所で遊べばいいのに」とも思った。

後ろを振り返る。
リボンの様に坂道が見えた。
天に伸びるリボン。
あの道を猛スピードで降りて来た自分を誇らしいと思った。

そしてまた自転車に乗った。
後にも先にも誰もいない。
好きな歌を口遊びながらペダルを漕いだ。


私はフフッと笑った。
起き上がると制服を脱いでハンガーに掛けた。消臭スプレーを掛ける。
夢の中で見た、とんでもなく急な坂とどこまでも広い海を脳裏に描いた。急道をノーブレーキで降りるハラハラするけれど爽快な感じ。ハンドルをちょっと切り損ねたら、橋に激突して「あ~れ~」と言って広くて深い海に落ちてしまう。そのふわっとした感覚を呼び起こす。
眠る前の悲しい気持ちは消え去っていた。
私はさっぱりとした気分で部屋着に着替えると、鼻歌を歌いながらリビングに向かった。

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