第20話  英子の場合  ふざけんな。

文字数 3,112文字

5月の終わり。

東池袋の雑居ビルの3階に私はいた。
ごちゃごちゃと古い建物が建っている。
小さなエレベーターでごとごと上がって行く。
茶色のドアの前で立ち止まる。
ドアには『305 村瀬』という表示。
私はドアをノックした。
「はい」と言う声とかちゃりという解錠の音がした。

初老の男性。
小柄で痩せている。
「こんにちは。高村橋さん」
男性はそう言って丁寧に頭を下げた。そして私を中に招いた。
「こんにちは。村瀬さん。お世話になります」
私も頭を下げると、部屋の中に入った。
男性はドアの鍵を閉めた。
浮気ではない。
彼は興信所の探偵である。
姉に紹介してもらったのだ。何故なら姉は義兄の浮気を疑ってこの興信所を使ったから。
姉が妊娠中の事だった。
因みに義兄は弁護士である。
結局、それは姉の勘ぐり過ぎだという事が判明した。義兄が美人のクライアントにちょっと親切にし過ぎたと言う所か。
義兄は浮気調査の事実を知らない。知っているのは私と母のみである。
それは無かった事になっている。


私は義兄に弁護士を紹介してもらった。
まずは証拠集めという事で探偵を雇ったのである。

ここに来たのは二度目だ。
一度目は浮気調査を依頼しに来た時。
そしてその結果を今日、聞きに来たのだ。
奥の部屋から若い男がお茶を持って出て来た。
探偵の助手である。
村瀬さんの甥っ子。
彼はぺこりと頭を下げた。そしてお茶を私の前に置いた。
私は軽く会釈をして「有難う御座います」と言った。
彼の名は山本(たける)君。中々のイケメンである。
彼はお茶を出すとそのまま奥に引っ込んだ。

村瀬さんが『f・ラーケル・マルケッタ・絵里』という名前を教えてくれた。
・・・?
どこのヒト?
私は繰り返して聞いた。
「すいません。もう一度、お願いします」
「f・ラーケル・マルケッタ・ 絵里」
村瀬さんは繰り返して言った。
私はメモを取る。
村瀬さんは言った。
「北欧系の血が混じっているみたいです」
「ああ・・・成程」
だからあんなに綺麗なのか・・・。
言われてみれば、色素も薄いような・・。

住所も教えてくれた。
でも、その前にアパートは知っていたけれど。
彼女の後を付けて何度もアパートに行ったから。
部屋の電気が点くのを確認して、あの部屋だと思う。ただ部屋番号は分からない。
入り口のドアはロックしてあり、ナンバーを入れないと入れない。
村瀬さんは203だと教えてくれた。


それから彼は数枚の写真を私に見せた。
亮介とマルケッタ・絵里がホテルに入って行く写真。
ホテルから出て来た写真。
それも複数枚・・。
腕なんか組んじゃって・・・。
私は写真を見詰める。
目からビームが出て、写真を焼き尽くす勢いで見る。
分かっていても流石に打ちのめされた。怒りと失望と嫉妬で体がわなわなと震えた。
もう座っていられなかった。
私は立ち上がって狭い事務所の中をぐるぐると歩き回った。

居酒屋にいる写真。レストランで食事をしている写真。
如何にも高そうな寿司屋のカウンターで二人並んで食べている写真があった。
寿司を握る職人の向こう側に。
私はそれを震える手で取る。
くしゃくしゃに丸めて踏みつけてやりたいと思った。
悔しい。悔し過ぎる!

「寿司を握る大将を撮らしてくださいと頼んで、大将を撮る振りをして撮りました」
村瀬さんは言った。
「このお寿司屋さん、高かったでしょうね?」
私は震える声で言った。
「まあ、お二人で3、4万円と言う辺りじゃ無いですか?」

・・・・
私の事なんかこんな所に一回だって連れて行かない癖に・・。うちなんかいつだって回転寿司なくせに・・。
私は子供達が可哀想になった。
信じられない。信じられない。
その金で○○回転寿司に何回行けるんだよ!

ふざけんな!ふざけんな!ふざけんな!ふざけんな!ふざけんな!ざけんな!ざけんな!ざけんなっ!!ゲス野郎。下半身○○男。

悔し涙が溢れて来る。私は唇を噛んで写真を眺めた。
写真には日時が映り込んでいた。
その時刻を見て私は思った。
残業って言ってホテルに行っていたんだ・・・。
ちょっと同僚と飲んで帰るとか・・。
土曜日というのもあった。
ああ・・・ゴルフ用品を見て来るって言っていた事もあったな・・・。

「先週、お得意とゴルフだと言って那須に行った、その写真は・・」
それは、私から村瀬さんに伝えて置いたのだ。
宿泊場所を夫から聞き出して。
彼女と楽しい不倫旅行だと思ったから。

村瀬さんは言った。
ああ。それですか。それはこちらに。
望遠で撮った写真。
数人の男連中がゴルフクラブを持って歩いている。
そこに亮介はいた。
「いや、それはゴルフでした。この目で確認して来ましたから」
村瀬さんは二日分のゴルフ写真を示した。


村瀬さんは言った。
「ご主人がエリさんのアパートに行く事は無いみたいです。毎日、確認している訳ではないのですが、あの付近では一度も見かけません。・・・泊まりの旅行にも行かないし、会うのは大体がホテル街でそれも短時間ですね。食事をしてからホテルとか、まあホテルに直行とか・・・。ご主人はビジネスライクな方ですね」
・・何だ?それ?
不倫にそんなのがあるのか?
私は首を傾げた。
「節度ある不倫と言うか・・」
村瀬さんは言い換えた。
「節度ある不倫」
私は村瀬さんの言葉を繰り返した。

「ずるずると女にのめり込んで行かないという事ですよ。際限なくどっぷりと浸かってしまう方もいるのですが、ご主人は遊びって割り切っていらっしゃる。要は身体の関係だけなんでしょうね」

余程私との性生活に不満なんでしょうね。
私は返した。
でも、結婚生活って、それ重要ですよね。
不満だからって他に相手を求めたら、破綻するの当たり前じゃないですか。
それにそんな事は分からないじゃないですか。夫が遊びと思っているかどうかなんて!
私は鼻息荒く言い返す。

高村橋さん。まあ、落ち着いてください。
村瀬さんは言う。

いや、それは確かにそうなんですけれども・・・何と言うか、男にはそういう習性が・・・
村瀬さんがそう言ったのを鋭く遮って言った。
「だったら、何でこんな高い寿司屋に行くんですか!」
私はぷりぷりと怒っている。
村瀬さんに怒っても仕方が無いのだが。
どこかに怒りをぶつけないと気が収まらなかった。

彼は思慮深げに私を見た。憐憫の情を滲ませて。

「まあ、ある意味、妻子ある男性との不倫と言うのは、昔で言えば、妾みたいなものでしょう?妾は囲っている男が生活費やら住居費やらを出さなくてはならない。だが、今はそんな事は無い。いや、勿論、そう言う例もありますけれどね。今は女性も働いていて、結局は両性の合意の元に行われているから、自由なんでしょうねえ・・・男も女も。どちらも縛られることは無い。金銭のやり取りが無ければ、妾みたいに隷属する事も無いし、男は毎月の金を払う義務がある訳でも無い。・・・・だったらたまには寿司位しょうがないのでしょうねえ・・・」
彼はしみじみとそう言った。
思わず頷いてしまいそうになって、いや、いや、違うからそれ。と声に出して言った。

「で、どうするお心算ですか?」
村瀬さんは言った。
「この写真を叩きつけて、今すぐ『離婚してやる』→『慰謝料と子供の養育費』に行きますか?」

私は答えた。
「本当はそうしたいのです。今すぐにでも。・・・でも、実は私には計画があるのです。もっと効果的に夫をぎゃふんと言わせる計画が。だから、もう少し様子を見ます。続けて調査の方をお願いします」
村瀬さんは言った。
「女が本気になったら男なんて屁みたいなものですよ。どうしたって女の方が強いのですから。
まあ、ご主人様も火遊びのツケを払うと言う事でしょうね」
私は強く頷いて言った。
「このゲス野郎を立ち直れない位、潰してやる所存です」
私の心はめらめらと燃え上がった。











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