第33話  英子の場合  悪霊退散

文字数 940文字

私は立ち上がってコーヒーを入れた。
それを飲みながら昨日の夜の事を思い出していた。

 亮介と口付けをした。
ああ、きっと彼女ともこんな風に熱い口付けを交わすのだろうなと思う。そう思った途端、心に冷たい風が吹く。
それを追い払う。
駄目だ。忘れるんだ。今はあの女の事を追い払うんだ。
考えるな。消えろ!消えろ!悪霊!・・・ええいっ!悪霊退散!!

私を抱き上げてベッドに運ぶのに、彼女の事も同じように運んだ事があるかも知れないと思った。きっと軽々と運ぶのだろうよ・・・。くそっ!よろけやがって!

私は亮介と寝るのもきっとこれが最後だろうと思った。
だから、もうあの女の事を忘れて。
今は、昔みたいに。
あの付き合い始めた頃みたいに。
ああ。あの頃に帰りたい。何も疑う事なく、お互いだけを求めていたあの頃に。
真っ直ぐにお互いと向き合っていたあの頃に。

薔薇の花束と指輪を持って、映画みたいに跪いて「僕と結婚してください」と言った。
「君をうんと大切にします」とも言った。
きちんとスーツを着て、私の贈ったネクタイを締めて。
それなのにだらだらと汗をかいていた。ハンカチで何度も汗を拭っていた。
亮介が凄くいい男に見えた。
幸せだった。すごく幸せだった。

梨乃が生まれて、そして和巳が生まれて。
てんやわんやの毎日が懐かしい。小さな二人を連れていろんな所に行ったなあ・・・。
車に荷物を詰め込んで、海や山に。
私の体は亮介の体とすっかり馴染んでいて、彼に抱かれていると結婚して時が過ぎても、自分が亮介をとても愛しているという事を思い出させてくれた。夫の腕の中が私の居場所だと思ってた。夫が愛おしかった。ここは自分だけの場所で、同様に私の腕は夫だけのもので、お互いがお互いのシェルターみたいなものだと思っていた。

でも、そう思っていたのは私だけだったのだ。

・・・あの頃に帰りたい。
何も疑う事を知らなかったあの頃に帰りたい。

 
ふと、亮介が言った。
「英子。泣いている。どうして泣いているの?」
私は慌てて涙を拭った。
そして微笑んで言った。
「何でもないの。なんか、すごく幸せだなって思って。・・・昔を思い出したの。付き合っていた頃の事を」
そう言って亮介の頬に触れた。

・・・亮介。あの頃に帰りたいね。
私は心の中で言った。

亮介は掌で私の涙を拭いた。
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