第61話 THE BLUE HEARTS

文字数 1,607文字

 悶々とした日々は過ぎる。頼んでもいないのに週末はやってくる。いよいよ、平本蓮が試合をする日だ。俺は、ジムの一番後ろの壁にもたれて体育座りをし、遠くからテレビの大画面を見ていた。
 テレビの近くにはジム生や所属選手が集まり、平本の前の試合を観戦している。解説は生ケンジだ。数多くの大会で本当に解説として呼ばれているケンジの解説は、見ているみんなを楽しませた。
 平本は0勝1敗。だが、今大会のメインをはる。
 いよいよの入場。『唯我独尊オオカミくん』というひどい呼ばれ方をしていた平本は、『美しきドブネズミ』というリングネームを付けられて帰ってきた。
 彼の好きなロックバンド、THE BLUE HEARTSの『リンダリンダ』という曲の歌詞、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」からきていることは間違いない。本人は気にしていないのかもしれないが、俺は何か、そのリングネームに違和感を抱いていた。
 試合が始まる。
 最初の殴り合いの後、あれだけ「UFCチャンプの実力がある」と公言していた立ち技の天才は、相撲のように押され続け、何もできずに惜敗した。
 試合が終わると普通、敗者は何も言わずに控室へと戻る。ただ、平本は違った。自分の発言に責任を持つという覚悟をしていたのだろう。コーナーで待ち、司会者に言われるがまま、マイクを手にする。
 普段偉そうな口をきいている平本蓮が、また負けた。次に、どんな方便を使うのか。テレビの前の観客は、残虐な顔つきで、固唾を飲んで見守った。
 言葉は1つだった。「負けた。けど、負けてない。もっとがんばる」悔し涙をこぼさないようにして、彼は気持ちを語った。
 「(試合には)負けたけど、(自分の気持ちは折れていないので)負けてない。(僕ちゃん)もっとがんばる(もん)」俺にはそう聞こえた。
 嗚呼。美しい。この男は、23歳という若さでいながら、自分の人生の全てをかけている。その言葉は純粋で、一片の嘘もなかった。
 俺はその時、リングネームに対する違和感の正体に気づいた。平本蓮は、『美しきドブネズミ』なんかじゃない。『ドブネズミの美しさ』なんだと。
 ドブネズミは醜くて汚い生き物だが、平本蓮に限っては美しいドブネズミである。これは間違った解釈だ。ドブネズミは、どんなドブネズミでも美しい。それに気づける男が、彼なのだ。
 「負けたけど負けてない」。これも同じだ。試合には負けた。けど、自分には負けてない。自分に負けない限りは負けていない。心は折れていない。
 平本の思考の全ては、自分が自由に生きることに注がれている。他人とは関係ない。勝っても自分が納得いかなければ意味がない。負けても自分が折れなければ負けてない。だから彼は、色々なアンチの声も笑えるし、どんな強者に対しても噛み付いていく。
 みんなは根本的に、そこを勘違いしているのだ。彼の世界には、他の誰もが入ることができない。
 俺は身震いした。今回の試合を見て、ジムのみんなは、それぞれが意見を言い合っている。だが、そこは、平本蓮とは違う世界の話だ。デッド・リーも、自分の世界で生きていた。俺も、格闘家になることが夢じゃない。自分の世界で自由を持つ。これこそが本当の夢なんだ。
 俺は、平本蓮と自分を重ね合わせた。
 嗚呼。自分の世界では、やはり母を大事にしたい。母に嫌われようが、自分は母を嫌いにはなれない。これが母の助けになるかも分からない。だが、自分の思うように母を助けた上で、なおもカミと結婚し、アメリカにも移住し、UFCのチャンピオンになってみせる。
 この決断。誰になんと言われても構わない。
 平本蓮は、リーチが短いという致命的な欠点があると思っていた。にもかかわらず、まだ夢を目指している。美しい。
 デッド・リーは、逮捕されても守りたい自分の正義がある。美しい。
 俺は、自分の心にいるドブネズミから、彼らと同じ光を感じられるようになっていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み