第8話 きよしこの夜

文字数 1,153文字

「重い」貪り尽くされたと思われた彼女が、だるそうに俺を押しのける。思ったよりも体力があるようだ。俺は、いつの間にか、彼女に覆いかぶさったままで寝ていたことに気づいた。
「ごめん」俺はすぐに、預けていた体重を緩めた。ただ、肌だけは離したくない。体温と心音だけは感じていたい。俺は、彼女の胸に顔をつけた。女は、あざとい目をした後でニヤリと笑う。
「謝んなくていーよ。お前、犬みてーだな。名前、なんてーの?」
「發二。西條發二って言うんだ」
「ハツジ? マジ? 8と2? 82じゃ、エールハウスじゃん。じゃあ、ハブ、いや、赤ちゃんみてーだから、パブだな。マジ、子犬じゃん」彼女は凄い早口で、頭の中で考えているであろうことを全て、口に出し尽くした。
 女性は男よりシナプスの結合が速い。だから、喋るのも上手い。そんな豆知識を見たことがある。俺は、こういうことなのかと納得した。そういえば母も、思ったことをそのまま言葉にする。女性はきっと、全員が純真なんだ。
 もし男なら、言葉に出す前に、一度考えてしまうものだ。例えば、名前を犬みたいだとからかうのなら、それはパブじゃなくて、パグ犬なんじゃなかったっけな、と。
 けれども、こういう反発をすると、いつも母から怒られていた。突っ込んではいけない。俺は代わりに、全く違う質問を返した。
「君は、なんて名前なの?」
 彼女は、いじ悪そうな顔をした。
「本当の名前を聞きたい? それとも、普通の呼び方を知りたい?」
 真名があるのか? 驚いたが、俺は彼女のことが好きになっている。少しでも本当のことを知りたい。
「そりゃもちろん、本当の名前がいい」俺は、彼女を強めに抱きしめた。彼女は、俺の耳元で囁く。
「なら、私の犬になると誓え。だったら教えてやる」悪魔の囁き。
 犬になる? 従属するということか? 俺は迷った。岩手に帰ってからでも、従属はできるのだろうか。だが、俺はもう、彼女に夢中だ。後先なんて考えられない。東京に来てよかった。母に忘れられてよかった。生まれてきてよかった。俺の気持ちはそれだけだ。
「誓います」
 契約。絶対に約束を守るという誓いの体温。彼女は俺の腕の中で、猫のように満足そうな顔をし、それから、自分の名前を教えてくれた。
「加美。西京加美っていうんだ」
 カミ? 神? やはりか! 俺は、何となく信じていた。キリスト教徒のおばあちゃんが、いつも俺に言っていたのだ。頑張って生きていたら、いつか必ず、良い時がやってくる。だから神を信じなさい、と。
 俺は、カミを一生信じようと心に誓った。彼女の犬になれば、以降ずっと、人生で最高の、至福の時間を与えて続けてくれるはずだ。彼女を信じ続ければ、きっと俺は幸福になれる。俺は、自分の人生ゲームのバージョンが変わったことを、はっきりと感じた。
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