第53話 あたらしい世界

文字数 1,472文字

 俺は眠い頬を引っ叩きながら、『True Hearts』へと向かった。今日のプロ練は、朝しかない。拐われたのでサボります、なんて言っていたら、夢には届かない。
 俺は有名な大会にこそ参加できていなかったが、すでに、プロと同レベルの実力は備えている。ただ、体重だけが問題だった。
 体重は絞って80kg。ミドル級かライトヘビー級が適正階級だ。この階級は、外国では金が稼げる。だが、平均身長の低い日本では、あまりにも選手が少なかった。
 70kg以上の選手がほとんどいない。選手がいなければ人気も出ない。コロナがあるので、海外から選手を呼ぶこともできない。つまり俺には、実力以前に、試合が組まれるための対戦相手がいなかった。

 ケンジは、ハツジの未来を考えていた。1回の試合は、100回の練習にも勝る経験が得られる。せっかく実力がついてきたのに、このまま試合をせずにいる時間がもったいない。特に、若いうちに実戦を積ませたい。
 ところが日本には、重量級の強い選手がいない。ハツジより体重は重いが、そう強くないヘビー級の選手と試合をさせて勝たせ、そのまま、アメリカの団体にプロモーションをかけようかとも思った。
 選手の活動できる寿命は短い。試合ができないなら、海外のジムに移籍させてしまうこともアリだと思った。もちろんジムとしては、看板選手になりそうな人材がいなくなることは大損だ。だがケンジは、そんな小さな視点で物事を見ていない。日本人をUFCチャンピオンにするという夢のためには、いくらでも身銭を切るつもりだ。とにかく、ハツジには、実績か資金が必要だった。
 だが、それも突然、解決した。今朝、ジムに電話があって、『新宿特区』が、ハツジのスポンサーになるといってくれたのだ。海外の有名なネゴシエーターとも橋渡しをしてくれる、とも言う。
「マジですか!」ケンジは、受話器を持ちながら興奮していた。声がでかいので、内容が筒抜けだ。

 あとは実力だけ。俺は、自分のポテンシャルと努力の継続に対して、絶対の自信を持っていた。カミも頑張ってるんだ。俺も頑張る。
 いよいよ、新しいステージに立つ時が来た。まさか、こんな日が来るとは夢にも思わなかった。もう、20歳で死ぬだなんて思わない。夢は、『俺ゲー』は、未来へと続いていく。アメリカ移住。UFCチャンピオン。カミと結婚。引退後は、ケンジさんのように後進を育てるのもいい。もしくは、リーさんみたいに慈善活動もしてみたい。俺はもう、なるべく長生きしたい 
 新しいステージに立つためには、準備が必要だ。まず、カミのように、トー横時代のすべてのSNSを消去する。仲間と離れるのは悲しい。だが今では、ジム仲間と会う時間の方が多い。スポンサーもついたし、ジムでコーチとして雇ってもらえることにもなった。お金の心配もなさそうだ。そこそこ金にはなっていたが、今やっている用心棒の仕事もキッパリと辞める。
 俺だけでない。カミも、新しいステージへと進んでいきそうだ。現在、国民的アイドルグループの最終審査にまで残っている。自分より先に、ZenlyやTikTokを含めたSNSを消去し、SHOWROOMで毎日、清楚にライブ配信をし続けている。
 新しいステージに進むことは、面倒でもあり、不安でもある。しかも、自分の時間の全てを、夢のために振らなくてはならない。
 もう今日で、カミのSHOWROOM配信を見るのも最後にする。頭の中まで、全てを格闘技に染め上げる。カミの姿を見ないのは苦行だ。だが、俺は初めて、地に足がついた心の躍り方を感じていた。
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