第39話 虚構世界

文字数 1,762文字

 俺は控室に戻らなかった。裏口から、そのまま外へ出る。惨めだ。一人になりたい。足は勝手に花園神社へと向かう。石段に腰を落とす。そして、ようやく、深いため息をつけた。ダメージはない。ただ、ずっと下になっていたので、判定では負けになってしまった。
 何をやっているんだ。俺は、自分を恥じた。仲間に迷惑をかけた。何より、カミを泣かせてしまった。だが、いくら頭を抱えても、事態は全く好転しない。ちくしょう。ちくしょう。ただ自分を責め続けるしかない。
「おつー」
 えっ? Zenlyは切ってるのに。俺は顔を上げた。座っている自分と同じくらいの身長の笑顔。カミだ。地雷系メイクでもないのに目の下が赤く腫れ、なんとなく垂れ目になっている。
「頑張ったジャーン」謝るよりも早く、小さな手でハツジの肩を叩く。
「担当の試合は?」
「見てないけど。ま、勝ったんじゃん? ほら、あの人、強いから」
「見なくていいのか?」
「当たりめぇだろ? だって、パブ、私の犬じゃん。ペットの面倒は飼い主がみる。これ、当然のこと」
 俺はカミに縋りついた。悔しすぎて、ただ泣きじゃくった。
「おー、よしよし。泣かない泣かない」
 両手で頭を撫で、子守唄のようなものを歌ってくれる。優しい。こんなにも俺を大事に思ってくれる人に対して、信頼を裏切った。顔に泥を塗った。俺は、そのことが悔しすぎた。
 感情は、脳内に麻薬のような物質が生成されて、どうしようもなく溢れ出てくるものだ。この物質がなくなるまで、感情が静まることはない。カミは温もりと歌で、ゆっくりと、悲しみの物質を溶かしてくれた。
「これから、どうしたらいいかな」俺は泣きべそだ。
「とりあえず、泣き止んだらトー横戻ろ? 明日になる前に、みんなと話した方がいーと思う」カミは頭を撫で続け、優しく慰めてくれた。嬉しい。だが、何か、俺の心には、奇妙な引っ掛かりがあった。

 完全に泣き止み、泣きあとチェックをしてもらった後、俺はカミと、トー横に戻った。仲間たちの反応は、思ったのとは違かった。
「よくやったよ」
「今夜はのもーぜ」温かく迎えてくれる。けれども、俺の心は何かを失った。どんなに騒いでも、少しも不安が消えない。
「惜しかったから。また出なよ」
「でも、出なくてもいいと思うよ」
「格闘技なんて、まじつまんね」
「パブは強ぇからな。次は勝てるさ」ポパイが俺の肩を叩いた瞬間、俺は、不安の正体が理解できた。
 今回負けた自分が、今の状態で、次に勝てるはずがない。けれども、次は勝てると慰めてくれる。これは事実に基づいていない。
 そう考えると、不安の正体が完全に暴かれた。負けた人が、何もしないで強くなれるはずがない。勝てないから出なくてもいいんじゃない。
 仲間は決して、現状を責めない。俺の顔色を見ながら、それに対する更なる同調と共感しかしない。嘘。嘘。嘘。どれも嘘。
 そうだ。仲間たちは、誰も未来を見ていない。今が無事に、気持ち良く過ごせればいい。未来を大事に思っていない。命を本気で生きていない。これではダメだ。
 俺がUFCチャンプ、少なくとも格闘技で食べていけるようになるには、今より100倍は強くならなくてはいけない。少なくとも、あんな元相撲取りのデブごときに負けているようでは話にならない。俺は、自分の才能を確かに信じる。でも、このままでは絶対に、未来には辿り着けない。
 俺は、みんなに意見を求めたかった。だが、仲間は誰一人として、未来のために生きていない。カミは、「高校受験してる」と言っていたが、それは単に、親の敷いたレールに乗せられているだけだろう。自分の未来のために高校へ行こうとしている訳ではない。多分カミも、自分が高校へ行く理由を説明できないだろう。
 困った時にはいつも、カミが、俺の目の前に降臨してくれる。だが、いくら降臨してくれても、自分の生きる道は、常に自分が決めるしかない。カミは優しいだけだ。何もしてはくれない。
 カミを信じれば強くなる訳ではない。自分が強くなって、カミを信じるのだ。俺は、首にぶら下げたお守りを握り締めた。
 けれども、どうすればいいのか、神は未来を教えてはくれない。そして、カミも終電で帰っていった。
 俺は不安を抱えたまま、ポパイたちに誘われて、気を紛らわすため、残念会に参加することにした。
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