第9話 SPA

文字数 1,722文字

「中央にはねーけど、タワーのAPAには、SPAがあんだ。あがんだろ? 昨日入ってねーだろうし。行ってこいよ」カミは、机の上を指差した。カードが置いてある。エレベーターを動かしたり、部屋の鍵を開けたりすることができるやつだ。SPA? まだよく分かってはいないが、カードを持てたことで、俺は胸が高鳴った。
「洗面所にタオルとガウンあっから。持ってっていーよ。私、自分の持ってる」言われてようやく、SPAが何のことだか分かった。「くせーから風呂入ってこいよ」って意味だ。カードキー関係ねー。
 まあいい。ちょうど裸だ。俺は風呂場に入り、シャワーの蛇口を捻った。手で水を触ると、まだ冷たい。だが、熱った体にはちょうどいいか。
 少し浴びると、水の音に紛れてカミの声が聞こえた。
「おーい。パブー。そこじゃねーだろ。ちょっと上がってこい!」ご主人様が呼んでいる。俺はシャワーを止め、ずぶ濡れになった体を拭き、急いで駆けつけた。カミはご立腹だ。
「てめー、スパの意味も分かんねーのかよ。温泉だよ、温泉!」
 温泉? 温泉なら一関にもある。けど、ビルの中に温泉なんて。考えて思い出した。そういえば、同級生のカンタロウが言っていたな。ホテルには、大浴場という名の温泉が付いている、と。
 まだ2日しか経っていないが、中学校で聞いた話は、随分昔の思い出のような気がする。それくらい、東京での出来事は、日常とはかけ離れている。
 俺の思いとは関係なく、カミは細かく説明してくれた。
「エレベーターの場所覚えてっか? そこまで行きゃ、どこにSPAがあるかが書いてあっから。それと、カードキーの使い方も知らねー訳じゃねーよな?」
 風呂と大浴場を間違えてた。この上、カードキーも使えないとは思われたくない。
「しっ、知ってるよっ!」俺は、顔を赤らめながらガウンを羽織り、部屋を出てSPAへと向かった。
 エレベーターの案内を見ると、最上階の28階に『大浴場』と書いてある。カミがやっていたようにカードをかざす。28階のボタンを押す。こんなに上まで上がったことがない。耳がツーンとなる。
 到着すると、今度は大浴場への入り方だ。ここにもカードを挿す機械がある。扉が開く。凄い。何にでも使用できる。俺は四苦八苦しながらロッカーを使用し、ようやく大浴場に入ることができた。御守りだけは肌身離さずに見つけている。肌守りといって、外しちゃいけないとおばあちゃんから言われていたからだ。
 『体を洗ってから入湯してください』か。書かれている使い方通りにシャワーを使う。ようやく湯船に浸かることができる。
 ふう。こんな広い場所でゆっくりとお風呂に入ったことはない。俺は人生で初めて、長い手足を、お湯の中で伸ばした。誰もいないので、少し泳いですらみた。自由。完全な自由。完全な大人だ。
 だが、楽しんでいたところに他の客が入って来た。すぐに縮こまって座りなおす。しかし、それでも大きな風呂は落ち着く。
 さて、これからどうしよう。落ち着いたところで、俺は考えた。スマホの充電はできた。だが、相変わらず、母からの返信はない。もう5通もLINEメールを送ったが、既読もつかない。
 それから、カミの犬になったことについて考えた。父はそもそもいない。おばあちゃんもいなくなった。母やツレには厄介者扱いをされている。学校も行きたいわけではない。そうなると、一関に戻る意味はあるのだろうか。ここにはカミがいる。犬になるのなら、飼い主は自分で選びたい。母から連絡が来ないなら、俺はカミと一緒に生きていきたい。
 だが、そうなると、俺は一人で生きていかなくてはならない。独立するには金がいる。さすがにカミは、生活費を出してはくれないだろう。俺はまだ働いたことがない。
 でも大丈夫。こんな時の妙案を知っている。困ったら、生活保護を取ればいい。YouTubeで、論破王ヒロユキが、いつも視聴者に薦めている。なんでも、この国では、簡単にその資格が取れるらしい。
 よし。そうなったら善は急げだ。母からの返信なんて、いつまでも待っている時間はない。早速、今日にでも生活保護を取りに行こう。新しいスタートだ。俺は、勢いよくお風呂場から飛び出した。
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