第84話 蚊の名残 - 玄鳥去 (つばめさる)

文字数 446文字

 玉露の、ふわりと甘い香りが久兵衛の鼻腔をくすぐる。
 幼馴染の金兵衛が招いてくれた。こうして汗を流すのも、残暑を過ごすには良かろうと思うてな。
 縁側の向こうに流れゆく雲からはもう、入道雲のような猛々しさが消え失せ、空と曖昧に混じり合っておる。
 こくのある味わいが喉元から胸へ腹へと広がり、久兵衛は目を閉じる。しばしののち、二口目。味が、変わる。
 良い茶というものは、揺らぐものだな。
 うむ、と金兵衛が茶碗を置く。茶托がわずかにかたん、と言うた。

 遠くに舞う玄鳥(つばめ)たち。すらりと横に、斜めに、あるいは鋭く弧を描くように。
 あれも揺らぎであろうか、渡りの前の。久兵衛は思いを馳せる。

 ご免。
 長兵衛が茶を下げにきたかと思うと、ぴしゃり、久兵衛の額から音が鳴った。
 まだまだ蚊がおります。長兵衛の手にはうっすらと赤いものが。

 蚊遣りに、松葉が(いぶ)され始めた。
 あのように鳥が騒ぎますところを見ると、もちっと出そうに思いまする、と長兵衛。
 久兵衛の額は、何やらむずむずと揺らぎ始める。

<了・連作短編続く>


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