第57話 蟷螂生る <芒種>

文字数 1,109文字

 曇の多い空であるが、川をわたる風にはさほど湿り気がない。長兵衛の足取りは、自然と軽やかになる。
 橋向こうの安兵衛から、頼まれてくれぬかと呼ばれた。
 屋敷の塀越しに、庭の手入れに精を出す白い頭が見え隠れする。あちらの枝を切り、こちらの葉を落とし。
 長兵衛が入っていくと、手招きして縁側の座布団をすすめてくれた。
 お内儀がお茶の盆を運んでくる。隣には名物の豆大福が山盛り。
 安兵衛は菓子屋の大旦那で、今は楽隠居。店を継いだ息子もまた、確かな腕の持ち主である。
 うまいうまい。
 安兵衛とお内儀は目を細める。

 さて、これなのだ。
 安兵衛は大福の包みと切花を、金兵衛の屋敷へ届けて欲しいという。
 命日なのだ、金兵衛のつれあいの。この日ばかりは、あやつは誰にも会わぬ。だから、声を掛けずにお勝手へ回り、置いてきてはくれまいか。
 それは安兵衛が丹精込めて育て上げた芍薬で、大きな蕾が緩んで花びらがひらひらとしているのであった。
 こっちは、お前さんの分だ。まだ蕾が締まっておるが、なに、七日もすれば咲くであろうよ。楽しんでおくれ。大福も付けておくよ。
 そういうことでしたら、すべて金兵衛さんにお届けいたしましょう。さすれば順々に咲いて、仏前を賑わせてくれましょう。
 長兵衛がそう申し出ると、安兵衛はかぶりを振った。
 芍薬は、金兵衛にとってつれあいの化身なのだ。花びらの重なった奥に、姿を現すのだそうだよ。それと語り合うのを楽しみにしておるのだと。
 一度、蕾が開かなかったことがあってね。
 芍薬にはあるのだ、そういうものが。
 あやつの落ち込みようといったら。
 だから、もうひらきかけで間違いなく咲くものだけを。

 去り際、庭先に安兵衛の切り落とした枝が目についた。これをいただいていっても構いませんか。
 今度、山へ向かうとき銅十郎坊に持っていってやろう。
 大家の金兵衛の屋敷へ回り、お勝手口に芍薬と大福を置いて手を合わせた。ぶらぶらと帰ってくると、枝は戸口に立てかけてそのまんまつい、忘れてしまった。
 
 長兵衛は毎日、手拭いを絞って蕾をそっとふく。蜜が花びらを固めてしまうと開きにくくなる、と安兵衛が教えてくれた。
 順調にほころんだ花は真っ白な大輪となった。
 顔を近づけて香りに酔いしれる。
 おや。
 花びらの間に、一つ、二つと(うごめ)くものがある。
 わしにも見えるのであろうか。
 
 あたりを見回した長兵衛は目を丸くすると、はす向かいの銀兵衛を呼びに行った。
 二人の男は長いことそれを見ていた。
 長兵衛は真似をしてみた。
 銀兵衛も同じ格好をしてみせた。
 無数の白い蟷螂(とうろう)の子が、鎌を振りあげかかってこいと言うておるのであった。


<了・連作短編続く>
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み