第63話 水澄 - 菖蒲華(あやめはなさく)

文字数 430文字

 鼻歌まじりに、源兵衛は山道を降りてきた。あやめの青紫はなにものにも変え難い。
 反物屋を早々に隠居して、染め物三昧の日々を過ごしている。神さんか仏さんがお作りになった色をいじるのは不遜な気がしなくもないが、やめられぬ。
 いや、染め物とは色だけではあるまい。山の、水辺の、集う花も風もすべてぱあっと目の前に浮かぶようなもの。
 地蔵さんのおられる辻を越え、川べりへと差し掛かると、今度はかきつばた。
 いずれあやめかかきつばた。自分でこしらえた節まわしで、朗々とうたってみる。

 ぽつ。
 ぽつり。
 降り出したようだ。
 小さな円がいくつも、花のまわりに、むこうにと生まれては消えていく。
 一つの円だけが、あちらへこちらへ、と動きを繰り返しておる。見つめる源兵衛に、笑みが浮かぶ。

 庵へ戻ると、丁寧に墨を摺り、大ぶりの紙の前に座る。筆には迷いがなく、一気に水辺のありさまを描きあげる。
 この黒点、水澄と見破るであろうかな。
 長兵衛さんなら、もしや。
 
 

<了・連作短編続く>
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み