第73話 露草 <立秋>

文字数 901文字

 寝坊助の長兵衛が、珍しく朝もやの中をゆく。
 日が高く登りきるまでにひとつ手伝ってはもらえないかと頼まれたのである。
 川の本流からはずれ、小さな流れに沿って歩く。朝の光が撫ぜるせせらぎはいっそうやわらかく、長兵衛の耳を包み込む。
 小さな青い花が涼しげなのに、思わず足を止める。幾つも、幾つも。背は高くなく、茎が地を這うように伸び、すっと広げた葉のその上から二枚の青い花びらがかぶりもののように。黄色い雄しべが笑った顔のごとくに。
 おはよう、長兵衛さん。露草(つゆくさ)を見ておいでか。
 源兵衛さん、おはようございます。かわいいものでございますね。
 あとでいいものを見せてあげましょう。今日はよろしく頼みます。

 源兵衛は反物屋の旦那であったが、早々に隠居して道楽のように染め物を始めた。ゆえに、あたりの者たちは、この小さな川を源兵衛川と呼ぶ。
 浸けてあった大ぶりの布を二人して洗い、こちらとあちらを持って木の枝にかける。その鮮やかさに長兵衛は目を見張る。こちらの端は濃く、あちらにいくほど薄く、その間がところどころ絞られて抜けているなどまことに品が良い。
 長兵衛が嘆息すると、源兵衛は子を愛おしむように布を見やる。
 今日のは、茜色というのですわ。
 これも草木から取るのでございますか。
 そこらにおりますよ。
 源兵衛の指差す先には、なんということはない蔓が繁っている。四枚の葉が蔓を囲むように生え、花はといえばくすんだような黄緑色の地味な、小指の先ほどもない。
 これがあんなになるのでございますか。
 さよう。この茜草(あかねぐさ)の根から作るのですな。
 見かけに寄らぬものでございますね。
 源兵衛は笑って、こちらへどうぞと長兵衛を作業小屋へ連れていく。
 今朝ほどの露草。あれは花から色を出します。
 源兵衛は筆をとり、真っ白な布に青い染料で雨蛙を描いてみせた。水につけると蛙は跡形もなく消えた。
 一日しか咲かぬのです。それを摘んで色にして、下絵を描いて流してしまう。
  
 源兵衛川の上に、はたはたと茜色。
 それが夕焼けの色と一緒になる頃、青い花はもうしおれておる。
 地下にあった根は空に揺れ。
 長兵衛は家路をゆく。


<了・連作短編続く>
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