第5話 虎落笛 <小雪>

文字数 831文字

 珍妙なおとである。風が出口を探して迷っているような。
 辺りを見回すと塀の上、猫がすっとこどっこいと言うたのを聞いたかと、長兵衛は目を(しばた)いた。
 隣を歩いていた大家の金兵衛が、口の前に人差し指を立てながら縁側の方へ回る。しばらくじっとしていたが、おとが途切れる頃合いを見計らっていたように声をかけた。
 おう久兵衛(きゅうべえ)、栗羊羹を買うてきたので一緒にどうかと思うてな。
 屋敷の(あるじ)が振り向くと顔をほころばせた。二人は幼馴染。酌み交わす日もあれば、茶菓子を楽しむ日もある。

 湯呑みをもつ手の温かさ、栗のふくよかさ、包み込む餡のおだやかさ。それを全て具現したような久兵衛の声が心地良い、と長兵衛は思う。
 かかあは実に上手かったのよ。
 茶を啜りながら久兵衛が目を遣った仏壇に、黒塗りの横笛。
 あそこにあるままでは、笛もあれも寂しかろうと思うたのだ。けれども、息の按配もようわからぬ始末。ちとやそっとでは音色にならぬ。こわしては大ごとと、倅が稽古用にこさえてくれた。
 久兵衛の脇に置かれているのは、素竹(すだけ)の笛だ。久兵衛の倅は建具屋のかたわら、達者に小物をつくる。
 (わし)はどうも、何事にも不器用なたちで。
 笛も、稽古を始めてそろそろ六年ほどになろうかな。ものになるか、ならぬかがわかるのに、それほどは要るのだ。石の上に三年というが、儂はその倍かかるのだよ。それでも日々、なにかしら見つかるものでな、ああでもないこうでもないと、またこれも愉しみかもしれぬて。
 
 良い倅を持たれたものよ、と金兵衛が羊羹の最後の一片を押しやる。
 倅は、かかあに似たのであろうな、と久兵衛は頬を緩め羊羹をつまんだ。


 風の強い日である。
 そういえば昨年のこの頃、あのような話をした。
 ああ、虎落笛(もがりぶえ)が鳴るから、呼び起こされたのであろうな。長兵衛は、久兵衛の屋敷の前を通りがかりながら思う。
 おや、待て、あれはまこと。
 長兵衛は立ち止まって瞼を閉じる。
 塀の上で、猫もまた聴き惚れているようである。

<了・連作短編続く>
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