第29話 春月夜 〈雨水〉

文字数 656文字

 焚き火の中から、それが姿を現した。
 丁寧に掴み上げると、長兵衛はようよう火の始末をして戻る。
 温かい空気と共に鼻腔を満たす芋の香り。
 茶を一口飲み、息を吹きかけ、熱さを確かめながらかじり始める。
 黄色い丸い割れ口。
 一昨日の満月のような、と長兵衛は独りごちる。
 ここに色んな月を集めてみたならさぞかし、趣があろう。
 三日月であれば。そう、春の三日月は横を向いているから、手拭いなどかけておくのによかろう。藍色の布ならば、まことあの空と馴染んでくれよう。
 上弦の月であれば。大福などのせてみてはどうだろう。いつぞや、橋向こうの安兵衛さんがくだされた、あの柔らかな。安兵衛は、店を息子に譲って隠居の身で、綿々(めんめん)と続く菓子屋の大旦那である。時折、その名物大福をお裾分けにあずかるのである。
 かじりかけの大福というものは、そもそも月に似ていはしまいか。兎の()いた餅で、餡を包むのであろうか。
 上弦の月と下弦の月は、かるたのようにならべてしまえばどちらがどちらか、わからんのう。その思いつきが可笑しくて、長兵衛の口の端が上がる。
 芋の半分の、最後のかけらを口に放り込むと、長兵衛は残りの半分をじっと見た。蠅入らず(はえい)らずに仕舞おうと思っておったのだけれども。
 長兵衛は、つと外へ出てみた。満月の翌々日の月。
 手に持った芋も、まん丸ではなく、少し欠けておる。
 今宵の月のように。
 ここに、三日月を合わせれば満月になるのであろうか。
 長兵衛は月を眺めながら残りの芋を食うた。
 部屋へ戻ると、白い手拭いが風ではたはたと揺れた。



<了>
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