第49話 新茶 〈立夏〉

文字数 727文字

 木立のてっぺんと、真ん中あたりでは色合いが違う。
 葉の若々しさ、光のかえり、風にあわせたしなりの加減。
 森の神にお礼を申し上げ、長兵衛は少し、土をいただく。
 鉢の土を広げて干してあったものと混ぜると、日の匂いと山の薫りが、あたたかな気と一緒にたゆたう。
 丁寧に(すく)いあげて、鉢を満たしてゆく。つ、つ、つと親指で窪みをつくると、朝顔の種を蒔く。昨夏に大家の金兵衛が呉れた種が花となり、また新たな種となった。


 行きつけの蕎麦屋の暖簾をくぐると、よう長兵衛と声がかかる。金兵衛の幼馴染、久兵衛(きゅうべえ)が手招きしておる。
 昼間より銚子をつけて、何やらご機嫌である。
 お前も一杯どうだい。ああこの豊穣の恵み。いい酒だねえ。
 長兵衛は飲めぬが、運ばれてきた蕎麦から立ち昇る湯気に、良いものでございますな、と声を合わせる。
 久兵衛はつまみを口に運ぶ。

 薫香(くのえこう)がな、そっくりであったのだよ。
 思わず振り返ってしもうた。似ても似つかぬひとであったよ。けれどもほんのひととき、(わし)はあの昔に戻っておった。
 長兵衛、ええ、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしておるな。わからぬか、お主にはまだ、においたつ想いびとのことなど。
 久兵衛は、くい、と飲み干すと朗々とうたった。
 香りと味はおもてとうら。
 蕎麦をすする手を止め、長兵衛は顔を赤らめた。
 まことに良い日であるよ。久兵衛はからからと笑い、これをやろうと言って小さな新茶の包みを手渡した。

 蒔いたばかりの鉢をのぞきこみ、土の湿りを確かめる。
 湯を沸かし、ちとばかり冷まして注ぎ入れる。
 緑色の香りが鼻と口を満たして、甘い余韻を残して消えてゆく。
 香りと味はおもてとうら。
 茶をすする手を止め、長兵衛は小声でうたってみた。

<了・連作短編続く>
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