第41話 初虹 〈清明〉

文字数 961文字

 橋を渡ると、目当ての屋敷は()きだ。
 いそいそと川べりをいく面々。長兵衛、大家の金兵衛とその弟子の銀兵衛は、安兵衛に招きを受けた。菓子屋の大旦那、今は楽隠居の身。
 空は一面の桜模様。雀がつついた花がふう、と足下へ。それを踏まぬよう、長兵衛は足を運ぶ。
 茶室へ通されるまでの間も、雲のように漂う香りに、三人の顔は自然とほころぶ。
 安兵衛自らが、盆を持って入ってくる。本日は、堅苦しいことは抜きにいたしましょう。さ、足を楽になされて。お(うす)もよいが、桜餅には煎茶(せんちゃ)が一番と、こう思うております。
 塩漬けの葉、桜色をした薄皮。その向こうにこし餡。
 まこと、これは煎茶がよろしいですなあ。金兵衛は感に耐えぬように言う。
 そしてもう一品(ひとしな)。長兵衛はこれを知らぬ。薄紅色のおはぎであろうか、桜の葉に包まれて。
 道明寺をいただけるとは思いませなんだ。銀兵衛はうっすらと涙を浮かべておる。
 ようご存知ですな。こちらでは桜餅といえば長命寺(ちょうめいじ)ですが。
 くにでは、道明寺でございました。こちらへ来てからというもの、寂しく思っておったのです。
 さようでしたか。実はわたしの生まれも道明寺なのです。桜餅の季節になるとこう、胸の奥がぎゅっとなりましてね。お内儀が煎茶を注ぎながら微笑む。
 長命寺は息子の店のものを持ってまいりましたが、道明寺の方は、今朝方から、うちのひとがこさえたんでございます。
 ああ道理で、お屋敷中いい匂いなのですなあ。
 金兵衛が相槌をうつと、安兵衛は照れたように白くなった頭に手をやる。
 長命寺なら要らぬ、と桜餅を食わずにおった頃もあったのです。銀兵衛がぽつ、ぽつと語る。でもようようみたら、これも春の(おと)ないを味わう、まことに美味いものでした。道明寺道明寺、と頑なに願い手を伸ばしていた折には、逃げていくばかりでしたのに。心を広げておりましたら、あちらから来てくれた。
 安兵衛が頷くと、お内儀が道明寺をもう一つ銀兵衛の前に置いた。

 おや、降ってきたね。
 花散らしの雨でございますね。と、お内儀。
 それもまたありなん。
 さっと通っただけで空には光が戻ってくる。
 あら。
 これはこれは、初虹ではないかね。

 こうやって、たれかが虹を持ってきてくださるのだ。
 あのあたりが桜餅の色でございますね、と長兵衛は大きく手を広げた。

<了・連作短編続く>
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