第61話 皐月波 <夏至>

文字数 1,167文字

 大家の金兵衛は、大きな帳面を前に座する。刺さりそうな空気の中で、弟子の銀兵衛が左隣に従う。
 長兵衛は部屋の隅に控えている。
 金兵衛の下調べは念入りだ。煎じ詰めて、からからになるまで。時には砂粒となって失せ、書かぬこともある。
 ちょいとばかり調べものの手助けをしてみないかと、長兵衛は誘われた。とはいえ、銀兵衛に手ほどきを受けながらのことで、助っ人と呼んでもらえるようになるまでは、ときがかかるであろう。
 金兵衛は背筋を伸ばす。まわりに少しずつ風が巻きはじめ、その奔流に逆らうことなく一気に筆を走らせる。
 銀兵衛は帳面が乾くまで、(まく)れたりせぬよう気を配る。
 ことを終え穏やかな面持ちの金兵衛。

 さあ、参ろうか。
 三人は海へ向かう。波頭が遠くまで白く立ったりひいたり。
 どこにも定まらぬ波の動きに吸いこまれ、長兵衛は無になった。
 大事に抱えていたはずの帳面がひら、と踊り。
 ぴーひょろろ。さっと降りてきたは(とんび)
 長兵衛は追う、どこまでも追う、かけてかけて息がきれてもなお足を止めず。
 頭上をすっと黒い影がよぎる。
 大鴉(おおがらす)が鳶に体当たりしたのであった。
 空から帳面が降ってくる。死に物狂いで飛びつく長兵衛の手に、す、と収まる。やった、と思う間も無く、足がもつれそのまま転がって。
 ざぶーん。

 天日で帳面は乾いたが、書き付けはすっかり洗われてしまったのであった。
 銀兵衛、と金兵衛は呼んだ。支度を頼む。
 夏の焚き火に陽炎が揺れて帳面が灰になってゆく。
 なに、(さらわ)れたのがお主でなくて良かったではないか。
 金兵衛は笑みすら浮かべておる。長兵衛は、この大馬鹿者と罵られた方が楽であると思う。
 お主、波を見ておったのであろう。
 はい。つい、見とれてしまいまして。
 うむうむ。
 大波も小波も、白いも暗いも、色んなものがあったろう。そっくり、人の世ということよ。
 揉まれながら歩いていくのだ。沢山の波を見て、荒波との付き合いを覚え、そのうちにこれは、というやつが来たなら(つかま)える。
 たれにも同じように波が来るわけではない。けれども、見ようと思わねば見えぬもの。しかも、身の丈に合わない波は、掴えたように思えても乗りこなせぬ。足腰をしっかり鍛えておかねば、せっかく大波に出逢うてもその勢いを借りることができぬ。
 しばらくあって、長兵衛は平伏する。
 金兵衛さん、もう一度お手伝いさせてください。
 そうかい、もうしばらくやってみるかい。

 火が消えると金兵衛が頷き、銀兵衛が小さな壺を取り出して灰を(すく)いとった。
 これはこれで(しま)いだ。あの書き付けは流そうと大鴉様が思われたのだから、これで良い。お(やしろ)様へお納めして言霊を鎮めてもらうよ、と金兵衛は言った。
 日の長い夏の傾きはじめた空の下、三人の男は戻っていく。

 長兵衛はまだ書き付けの中味を知らぬ。

<了・連作短編続く>
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