第9話 枇杷の花 <大雪>

文字数 757文字

 雪が降ったのであろうか、と長兵衛は思うたのである。
 あたりはあらかた紅葉を終えて、足元でかさかさと音を立てているのだが、その木ばかりは大きな葉を青々と茂らせていて、雪と見えたのは小さな花なのであった。
 先を歩いていた銀兵衛が、白から淡く黄みを帯びてきた花弁に顔を近づけ、深く息を吸い込むのが見えた。
 仕舞われていた時が流れ、目の前に古い景色が溶けてゆくがごとくに動きを止めたかと思うと、銀兵衛は枇杷の木と見分けがつかなくなった。

 枇杷の精に連れていかれたのではなかろうか。
 銀兵衛が微動だにせぬので、長兵衛はそう訝った。
 そこで、枇杷の精を怒らせぬよう、間伸びした声をつくろって話しかけてみたのである。
 枇杷は今時分に花が咲くのか。すると、いつか実がつくのだな。

 はたして、銀兵衛はゆっくりとこちらを向くと目を見張って応えたのである。
 長兵衛、お主は枇杷を食うたことがないのか。

 知らぬぞ、儂は枇杷葉の湯しか飲んだことがない。どんな実だ、美味いのか。
 丸うて、少し長くて、蜜柑に似たような色をして、甘酸っぱい。
 口の中に味が広がったのか、銀兵衛は二度三度と(かぶり)を振っている。やがて小さな花をいくつか摘み取りながら話し出した。
 こうして間引いておくと、実が育つやも知れぬ。うまいこと成ったならば一緒に食おうではないか。
 それはいいぞ。鳥に取られぬよう、気を配るとしよう。
 長兵衛は木に近づき、花の匂いを嗅いだ。甘いが、慎ましやかな、それでいて意志の強さのある香りであった。

 その昔、儂がここに種を埋めたのだ。
 銀兵衛がそう呟いたちょうどその時、落ち葉を鳴らす音がして、一匹の狐が駆けていった。
 銀兵衛の目の色が正気に戻る。
 長兵衛はなんとなしに、聞こえなかったふりをするのがよかろう、と思うた。

 
<了・連作短編続く>
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