第77話 灯籠 <処暑>

文字数 740文字

 久兵衛(きゅうべえ)は、口に運ぼうとした猪口(ちょこ)をしばし止めた。
 いま、虫の声がしたように思うが。
 おう、(わし)も聞いたぞ、と金兵衛。
 二人は幼馴染で、たがいに(やもめ)で、しかもすぐそこに住まう。これが、つどつど酌み交わさずにおれようか。
 今宵は久兵衛の小さな一軒家にて小宴。金兵衛の弟子の銀兵衛、そして長兵衛もお相伴にあずかった。開け放たれた障子、縁側の向こうより少しばかり涼しくなった風が抜ける。
 蝋燭が揺れ。
 あれは盆の灯籠か。
 金兵衛に尋ねられると久兵衛は照れたように笑う。
 うむ、盆の(たま)まつりはとうに終えたが、名残惜しくてな。
 金兵衛は頷く。
 面白い柄だ。花を描くでもなく、ただこのように。
 それは切り絵のように、大小不揃いの丸窓が、ぱらぱらと配してあるのであった。
 (せがれ)がこしらえたのだ。
 久兵衛の声が明るくなる。
 あれは儂と違って手先が器用で。建具をやるかたわらで、このようなものも作る。
 たいしたものよ。金兵衛が相槌をうつと、久兵衛はきゅう、と飲み干してから灯りに目を遣った。
 
 かかあに、何が一番好きかと尋ねたことがあってな。買うてはやれんかもしれぬが、まあそれでもと。
 あれは、木漏れ日、と言うた。あのように美しいものはない、とな。
 それなら、この世の木漏れ日は全部お前にやろうと儂が答えると、笑っておった。いっぺんぐらいは、儂の一番好きなものは、とあれに言うておけばよかったと思っておる。
 
 風が抜けるたび、ちらちらと宵の木漏れ日。
 
 良い倅を持たれたものよ、と金兵衛は久兵衛に酒をつぐ。
 また、虫の声がした。
 銀兵衛の袂より何やら姿をあらわす。
 二人で蟋蟀(こおろぎ)さがしをしておりましたもので。
 長兵衛が言うと、久兵衛は破顔して金兵衛、銀兵衛、長兵衛に順繰りに酒をついだ。

<了・連作短編続く>
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