砂時計

文字数 1,658文字

道端にビニールシートを広げて、何かを売っている若い女がいた。
以前同じ場所で、妙な壺を売っていた女だ。

今日女がビニールシートに並べていたのは、見掛けは何の変哲もない砂時計だった。
――道端でこんなものを並べて、果たして商売になるのだろうか。

私は何となく興味が湧いて、女に話し掛けてみた。
「売れますか?」

すると女は無表情な顔を私に向けた。
「まったくですね。よければ、お一ついかがですか」

「値段によりますね。いくらですか?」
女が口にしたのは、かなりの高額だった。

「とてもそんな額は払えませんね」
私が呆れて立ち去ろうとするのを、おんなは引き止めるように言った。

「高いとお思いかもしれませんが、これにはそれだけの価値があるんですよ」
女の断固とした口調に、私は思わず訊き返していた。
「どんな価値があるんですか?」

おんなは無表情だった顔に、微かな笑みを浮かべる。
「この時計はね。一度だけ時を戻すことが出来るんですよ」

「時を戻す?」
「そうです。人間誰しも、あの時に戻ってやり直したいと思うことがあるでしょう?この時計を使えば、たった一度きりですけど、時を戻すことが出来るんですよ」

――そんな馬鹿な。
女の話を聞いて私は思わず失笑してしまったが、反面、もし本当に時を戻せたらと思った。
今の私には、切実にそう思う理由があったからだ。

女は私の考えを見透かしたように、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
「一度試してみられてはどうですか?今回は大サービスで、お金は後払いで結構ですよ。もし時間が戻らなかった場合は、お代は結構ですので」

「本当かね?」
私は女の言葉に、思わず食いついていた。
本当に時間が戻ったら、どうやって私から代金を徴収するのだろうと思ったが、それは女の側の問題だ。

「ああ、本当ですよ。どうぞ持っていって下さい」
そう言って女は、並んだ砂時計の中から一つを掴んで、私に手渡した。

自宅に戻った私は、キッチンテーブルの上に砂時計を置いた。
まだ使うかどうか迷っていたのだ。

――どうせまやかしに決まってる。
自分にそう言い聞かせると、私は女に言われた通りに、自分が戻りたい時を強くイメージしながら、砂時計をひっくり返した。
中の砂が、さらさらと落ち始める。

気がつくと、周囲の様子が変わっていた。
テーブルに置いたデジタル時計を見ると、日時が遡って、昨日の夜8時になっていた。

寝室から音が聞こえる。
妻が実家に帰る支度をしている音だ。

昨日のこの時刻、出て行こうとする妻と口論になった。
私の浮気が原因だった。

その時私は、食って掛かって来た妻を、思わず突き飛ばしてしまった。
そして妻は、食器棚に頭をぶつけて、死んでしまったのだった。
妻の死体を前に途方に暮れた私は、どうしてよいか分からず、次の日の朝にフラフラと街に出て、あの時計売りの女と行き会ったのだった。

時を戻すという、あの女の言葉は本当だった。
妻が荷物を抱えて、寝室から出てきたのだ。

ここで何も言わずに妻を送り出せば、少なくとも殺人犯にならずに済む。
そう考えた私は、無言で私を睨みつける妻を、そのまま見送ることにした。

――これでもう大丈夫だ。
私がそう思った時、玄関から出ようとした妻に、外にいた誰かがぶつかって、二人して室内に(なだ)れ込んできた。

浮気相手のケイコだった。
ケイコは鬼の形相で立ち上がった。

手に血まみれの包丁を持っている。
倒れた妻は、ピクリとも動かない。

「タカシさん。私と一緒に死んで」
ケイコは、今度は私に向かって包丁を突き出してきた。

それを辛うじて避けた私は、ケイコと揉み合い、床に倒れ込んでしまった。
我に返った私は、自分の手に握られている包丁を見た。

包丁も手も血まみれだった。
そして目の前の床には、ケイコが倒れている。

パニックを起こした私が、靴も履かずに玄関から飛び出すと、マンションの廊下に時計売りの女が立っていた。
「お役に立てたようですね。料金を頂戴しにまいりました」
そう言って右手を差し出した女に、私は声を失っていた。

そんな私を見て、女は言った。
「おや、もう一つご入用のようですね」
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