プロローグ(2)
文字数 3,850文字
打ち合わせを終えて防衛省の正門ゲートを出ると、演説少女はいなくなっていた。場所を変えたのか、家に帰るかでもしたのだろう。
由佳里は俺をうながしてくる。
「次の予定は国立国際医療研究センターですね。行きましょう。あっちですよ」
「タクシーでも捕まえるか」
「何言ってるんですか。ここからすぐですよ。裏路地を抜けていけば、ちょちょいのちょいです」
「この辺の道わかるのか?」
「当然じゃないですか。東京は私の庭のようなものです。江戸っ子ですから」
誇らしげに由佳里は胸を張った。
俺は由佳里の案内で付いていく。そう言えば早稲田大学は比較的近い。築地 生まれの由佳里でも、この一帯ならよく知っているのだろう。
曙橋 の駅を通り過ぎ、古ぼけた商店街を俺たちは歩く。防衛省から歩いて五分、こんなところが残っているとは驚きだ。
俺は周辺の木造住宅群を眺め回しながら首を振る。
「新宿区のこのあたりはゴチャゴチャしすぎててサッパリだ。こんな超都心なのに迷路のようでさ。いったん入り込むと、二度と戻れる気がしないよ。早く再開発しろっつーの」
俺の言葉に、由佳里が大仰にため息をついてみせる。
「はぁ……。これだからワビサビを解さない人は困ります。東京の美しさはこういうところにあるんですよ。先輩、大阪や名古屋に行ったことはありますか?」
「そりゃ何度もあるけどな」
「いいですか。大阪も名古屋も、あれは頂けません。街が碁盤の目で、どこにいっても同じようで、風流のカケラもない。でも東京は違います。ホラ、見て下さい、この道を。流れるような曲線美、緩やかに上下する標高、入り乱れる路地と民家。これこそが東京の風情 ってなもんです」
「そんな良いもんかよ。暮らしにくいだけだ」
「てゆうか、よく考えたら先輩、この近所育ちじゃないですか!番町 ですよね!?」
由佳里の言う「番町」とは、千代田区の一番町から六番町までの番地を総称して言う。近いかどうかは微妙なところだ。自転車でかっ飛ばせば一〇分くらいの距離だろう。
「こっちには来ないよ。用事ねーし」
「東京の美しさがわからないとは、まったく見下げ果てたものです。そのうち街が上海みたいに無機質になっちゃいますよ」
ふと由佳里は、気づいたように俺を見上げてくる。
「先輩、さっきからキョロキョロして……もしかして、さっきの子を探してたりするんですか?」
「まぁ、ちょっとな」
「かなーり可愛かったですからね。でも一六歳はダメですよ。犯罪です」
「違うっつーの。やっぱりちょうどいいだろうよ。今度の広報ビデオにさ。予算少ないし、五万くらいで出てくれれば御の字だったんだけどな」
「本当に予算少ないですよね……二〇〇万で六〇分二本も広報ビデオ作れなんて……。ましてや蒼通の仕事となれば、どんなに予算が少なくてもいい加減なものを作るわけにはいかないし……大損ですよ」
ため息交じりに由佳里が言った。
「そう言うな。いくら低予算でも国家事業であることに変わりない」
「いっそ撤退したらどうです? 他社に取られてもいいじゃないですか。受注すれば赤字なのに、わざわざ仕事をこなす意味がわかりません」
「一件一件の小さな案件ばかりに注目するな。こうして信用を積み重ねていれば優良案件が回ってくるから、全体としてバランスを合わせられればいいんだよ。蒼通の仕事ってのはそういうもんだ」
最近の官庁は世間の想像と違い、予算が少なく、渋い要求ばかりだ。要するに金がないのである。だから接待で予算枠を拡大してもらうこともできない。しかしある意味で優良クライアントであることは確かだから、蒼通としては仕事をせざるを得ないという悩ましい事情もある。
俺は説明を続けていく。
「『損して得取れ』って言葉があるだろう。日本社会は、そうやって上手く回っているところがある。考えてみろ、いざ有事となれば、防衛省は最高のクライアントになりうるんだぞ。そんなときに取引してないなんて事態になってみろよ。日々の仕事は多少損したって、長期的視野で構えていられる余裕のあることが蒼通の強さなんだ」
「有事って……戦争ですか」
「そういうのも含めてだ」
「ありますかね……戦争?」
首をかしげた由佳里に、俺は肩をすくめて応じる。
「知らねー。さっきの演説少女にでも聞いてみろ」
「あ……演説の子……」
路地を回ってすぐ、由佳里は呆然とつぶやきながら前方を指差した。
演説少女が、いかつい二人の男に挟まれ睨 み合っている。少女は片方の男から腕を摑 まれ、どこかへ引き立てられようとしていた。
すぐ傍で車のドアが開け放たれている。真っ白いトヨタ車。少女を拉致しようとしているのだろうか。
「やめろッ! 汚い手で触るな、犬め!」
少女は腕を振りほどこうと必死に叫んだ。
男たちは包囲を狭め、力尽くで言うことを聞かせようとしているようだった。
由佳里は戸惑った声を上げる。
「ど、どうしましょう……」
「助けないわけにはいかないだろう。俺が行ってみるから、由佳里は一一〇番してくれ。それから万一の場合、大声で叫んでくれると助かる」
「さすがです、先輩。……これ、使ってください」
もぞもぞとバッグを漁 った由佳里は、スプレー缶を差し出してきた。
「なんだ、これ?」
「痴漢 撃退用スプレーです。男性は私を一目見ただけで、ストーカーになってしまう可能性を秘めていると思うんです。だからいつも万全の準備をしています。まだ一度も狙われたことありませんけど!」
「うっせ。お前ならストーカーも全力で逃げ出すぜ」
そう言いつつ、俺はスプレー缶を受け取った。使うことにはならないだろうが、俺は念のため缶を握りしめ、少女と男たちの方へ慎重に歩を進めた。
揉 み合いながら少女は声を上げている。
「何をするッ! 離せ!」
「神楽日毬、いいから来い! ちょっと話を聞くだけだ」
「噓をつけ! なら乱暴なんてするな!」
「お前が暴れるからだろうが!」
男たちの後ろから近づいた俺は、うんざりしたように声をかける。
「おっさんたちさぁ……。こんな真っ昼間から、やっていいことと悪いことがあるだろう?」
「あ?」
男たちは、眉をひそめて俺を振り向いた。
「警察呼んでるから。早く逃げた方がいいんじゃねーか?」
俺はアゴでそっちに行けと促した。
だが俺の思惑とは裏腹に、男たちは微塵 も動じた様子を見せなかった。「警察を呼んだ」という言葉だけで逃げ散っていくものと思っていたのに。
「なんだぁ? 部外者はすっこんでろ!」
男の一人が俺を睨みつけてきた。興奮状態にあるように見えた。
もう一人が少女を摑む手に力を込める。
「面倒なことにならないうちに従え! ほら、行くぞ、車に乗れ!」
「嫌だ! 手を離せ!」
少女は激しく首を振り、うめいた。
「部外者は下がってろ。用事はすぐ済む」
俺と睨み合っていた男はそう口にし、再び少女の腕を取った。
なんという白昼堂々とした暴漢だろうか。ここまで威厳に満ちて犯行に及ぶ凶漢に、さすがに俺は面食らった。日本の治安は世界一だったはずではないのか。
いくらなんでも、少女が連れ去られるのを黙って見過ごすわけにはいかない。こうなれば手段を選んでいる余裕はなかった。問答無用だ。
俺は意を決し、男らに一歩近づいた。
再び男がチラと俺を見やり、訝しげな顔をした。
おもむろに俺は痴漢撃退スプレーを、目の前の男に振りかける。
「ぎゃああああああああああああ!」
住宅街に響く男の絶叫。
男は路面にひれ伏し、のたうち回った。
うむ。効果は抜群だ。
「貴様!」
倒れ伏した男を乗り越えるように、少女から手を離したもう一人の男が、俺へと襲いかかってきた。身のこなしが速い。
咄嗟 に俺はスプレーの発射口を向けるも、男は機敏 に、しゃがみ込むように俺へと急接近してきた。スプレーを発射する間もなく、男は俺の腕を摑みあげてくる。
「くそッ! 暴漢野郎!」
「暴漢だと!? 貴様こそ暴漢だろうが!」
男が俺を投げようと腕を取ってきた。俺も投げられまいと、必死で男の腕を摑み返す。
そのまま揉み合う格好になるも、男の力の方が強い。俺は片膝をつき、組み伏される寸前だった。
その時――。
「えいっ!」
由佳里の声が聞こえた。
「がはっ……」
突然、男がグッタリし、俺にのしかかるように倒れ込んできた。
由佳里が持っていたバッグで、男の後頭部に一撃を食らわせたのだ。由佳里のバッグにはノートパソコンが入っている。その角を力任せに打ち付けでもしたのだろう。ナイスフォローだ。
くずおれる男を払い除け、俺は立ち上がって少女の手を摑んだ。
「逃げるぞ! 走れるな?」
少女は目を見開いて俺を見上げ、コクリと頷いた。
「よくやった、由佳里。その靴で走れるか?」
「喧嘩上等かかってきやがれってなもんです。江戸っ子ですから」
目の前で由佳里はパンプスを脱ぎ、裸足 になった。
それから俺たちは住宅街を駆け抜け、暴漢たちから遠ざかった。
由佳里は一一〇番しているはずだ。倒れ伏している暴漢たちは、現場に駆けつけた警官らに、いの一番で見つかることだろう。
由佳里は俺をうながしてくる。
「次の予定は国立国際医療研究センターですね。行きましょう。あっちですよ」
「タクシーでも捕まえるか」
「何言ってるんですか。ここからすぐですよ。裏路地を抜けていけば、ちょちょいのちょいです」
「この辺の道わかるのか?」
「当然じゃないですか。東京は私の庭のようなものです。江戸っ子ですから」
誇らしげに由佳里は胸を張った。
俺は由佳里の案内で付いていく。そう言えば早稲田大学は比較的近い。
俺は周辺の木造住宅群を眺め回しながら首を振る。
「新宿区のこのあたりはゴチャゴチャしすぎててサッパリだ。こんな超都心なのに迷路のようでさ。いったん入り込むと、二度と戻れる気がしないよ。早く再開発しろっつーの」
俺の言葉に、由佳里が大仰にため息をついてみせる。
「はぁ……。これだからワビサビを解さない人は困ります。東京の美しさはこういうところにあるんですよ。先輩、大阪や名古屋に行ったことはありますか?」
「そりゃ何度もあるけどな」
「いいですか。大阪も名古屋も、あれは頂けません。街が碁盤の目で、どこにいっても同じようで、風流のカケラもない。でも東京は違います。ホラ、見て下さい、この道を。流れるような曲線美、緩やかに上下する標高、入り乱れる路地と民家。これこそが東京の
「そんな良いもんかよ。暮らしにくいだけだ」
「てゆうか、よく考えたら先輩、この近所育ちじゃないですか!
由佳里の言う「番町」とは、千代田区の一番町から六番町までの番地を総称して言う。近いかどうかは微妙なところだ。自転車でかっ飛ばせば一〇分くらいの距離だろう。
「こっちには来ないよ。用事ねーし」
「東京の美しさがわからないとは、まったく見下げ果てたものです。そのうち街が上海みたいに無機質になっちゃいますよ」
ふと由佳里は、気づいたように俺を見上げてくる。
「先輩、さっきからキョロキョロして……もしかして、さっきの子を探してたりするんですか?」
「まぁ、ちょっとな」
「かなーり可愛かったですからね。でも一六歳はダメですよ。犯罪です」
「違うっつーの。やっぱりちょうどいいだろうよ。今度の広報ビデオにさ。予算少ないし、五万くらいで出てくれれば御の字だったんだけどな」
「本当に予算少ないですよね……二〇〇万で六〇分二本も広報ビデオ作れなんて……。ましてや蒼通の仕事となれば、どんなに予算が少なくてもいい加減なものを作るわけにはいかないし……大損ですよ」
ため息交じりに由佳里が言った。
「そう言うな。いくら低予算でも国家事業であることに変わりない」
「いっそ撤退したらどうです? 他社に取られてもいいじゃないですか。受注すれば赤字なのに、わざわざ仕事をこなす意味がわかりません」
「一件一件の小さな案件ばかりに注目するな。こうして信用を積み重ねていれば優良案件が回ってくるから、全体としてバランスを合わせられればいいんだよ。蒼通の仕事ってのはそういうもんだ」
最近の官庁は世間の想像と違い、予算が少なく、渋い要求ばかりだ。要するに金がないのである。だから接待で予算枠を拡大してもらうこともできない。しかしある意味で優良クライアントであることは確かだから、蒼通としては仕事をせざるを得ないという悩ましい事情もある。
俺は説明を続けていく。
「『損して得取れ』って言葉があるだろう。日本社会は、そうやって上手く回っているところがある。考えてみろ、いざ有事となれば、防衛省は最高のクライアントになりうるんだぞ。そんなときに取引してないなんて事態になってみろよ。日々の仕事は多少損したって、長期的視野で構えていられる余裕のあることが蒼通の強さなんだ」
「有事って……戦争ですか」
「そういうのも含めてだ」
「ありますかね……戦争?」
首をかしげた由佳里に、俺は肩をすくめて応じる。
「知らねー。さっきの演説少女にでも聞いてみろ」
「あ……演説の子……」
路地を回ってすぐ、由佳里は呆然とつぶやきながら前方を指差した。
演説少女が、いかつい二人の男に挟まれ
すぐ傍で車のドアが開け放たれている。真っ白いトヨタ車。少女を拉致しようとしているのだろうか。
「やめろッ! 汚い手で触るな、犬め!」
少女は腕を振りほどこうと必死に叫んだ。
男たちは包囲を狭め、力尽くで言うことを聞かせようとしているようだった。
由佳里は戸惑った声を上げる。
「ど、どうしましょう……」
「助けないわけにはいかないだろう。俺が行ってみるから、由佳里は一一〇番してくれ。それから万一の場合、大声で叫んでくれると助かる」
「さすがです、先輩。……これ、使ってください」
もぞもぞとバッグを
「なんだ、これ?」
「
「うっせ。お前ならストーカーも全力で逃げ出すぜ」
そう言いつつ、俺はスプレー缶を受け取った。使うことにはならないだろうが、俺は念のため缶を握りしめ、少女と男たちの方へ慎重に歩を進めた。
「何をするッ! 離せ!」
「神楽日毬、いいから来い! ちょっと話を聞くだけだ」
「噓をつけ! なら乱暴なんてするな!」
「お前が暴れるからだろうが!」
男たちの後ろから近づいた俺は、うんざりしたように声をかける。
「おっさんたちさぁ……。こんな真っ昼間から、やっていいことと悪いことがあるだろう?」
「あ?」
男たちは、眉をひそめて俺を振り向いた。
「警察呼んでるから。早く逃げた方がいいんじゃねーか?」
俺はアゴでそっちに行けと促した。
だが俺の思惑とは裏腹に、男たちは
「なんだぁ? 部外者はすっこんでろ!」
男の一人が俺を睨みつけてきた。興奮状態にあるように見えた。
もう一人が少女を摑む手に力を込める。
「面倒なことにならないうちに従え! ほら、行くぞ、車に乗れ!」
「嫌だ! 手を離せ!」
少女は激しく首を振り、うめいた。
「部外者は下がってろ。用事はすぐ済む」
俺と睨み合っていた男はそう口にし、再び少女の腕を取った。
なんという白昼堂々とした暴漢だろうか。ここまで威厳に満ちて犯行に及ぶ凶漢に、さすがに俺は面食らった。日本の治安は世界一だったはずではないのか。
いくらなんでも、少女が連れ去られるのを黙って見過ごすわけにはいかない。こうなれば手段を選んでいる余裕はなかった。問答無用だ。
俺は意を決し、男らに一歩近づいた。
再び男がチラと俺を見やり、訝しげな顔をした。
おもむろに俺は痴漢撃退スプレーを、目の前の男に振りかける。
「ぎゃああああああああああああ!」
住宅街に響く男の絶叫。
男は路面にひれ伏し、のたうち回った。
うむ。効果は抜群だ。
「貴様!」
倒れ伏した男を乗り越えるように、少女から手を離したもう一人の男が、俺へと襲いかかってきた。身のこなしが速い。
「くそッ! 暴漢野郎!」
「暴漢だと!? 貴様こそ暴漢だろうが!」
男が俺を投げようと腕を取ってきた。俺も投げられまいと、必死で男の腕を摑み返す。
そのまま揉み合う格好になるも、男の力の方が強い。俺は片膝をつき、組み伏される寸前だった。
その時――。
「えいっ!」
由佳里の声が聞こえた。
「がはっ……」
突然、男がグッタリし、俺にのしかかるように倒れ込んできた。
由佳里が持っていたバッグで、男の後頭部に一撃を食らわせたのだ。由佳里のバッグにはノートパソコンが入っている。その角を力任せに打ち付けでもしたのだろう。ナイスフォローだ。
くずおれる男を払い除け、俺は立ち上がって少女の手を摑んだ。
「逃げるぞ! 走れるな?」
少女は目を見開いて俺を見上げ、コクリと頷いた。
「よくやった、由佳里。その靴で走れるか?」
「喧嘩上等かかってきやがれってなもんです。江戸っ子ですから」
目の前で由佳里はパンプスを脱ぎ、
それから俺たちは住宅街を駆け抜け、暴漢たちから遠ざかった。
由佳里は一一〇番しているはずだ。倒れ伏している暴漢たちは、現場に駆けつけた警官らに、いの一番で見つかることだろう。
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