ひまりプロダクション(1)

文字数 6,607文字

「なんとか予算内のワンルームだ。しばらく俺もここに住むけど、勘弁してくれな」
 俺は初めて日毬を、プロダクション事務所として利用する予定のマンション一室へと案内していた。
 部屋を興味津々で眺め回しながら日毬は言う。
「いい事務所だ……。私の政治結社も、早くこのような場所を借りたいものだが……」
 俺は銀座の1LDKを引き払い、四谷三丁目のワンルームマンションに引っ越してきていた。銀座は家賃が月一六万八〇〇〇円もしていたが、今度は月七万五〇〇〇円である。
 蒼通を辞めても数百万程度の貯金を手元に残しているが、固定給がなくなる以上、高額な家賃は払えない。事務所と自宅を分けて借りる余裕もない。だからプロダクションが軌道に乗るまでは、事務所兼自宅にする予定だった。
 二八平米、若干(じゃっかん)広めのワンルーム。築二〇年。風呂とトイレがセットになっているユニットバス。場所柄、小規模自営業者を対象にしている造りだった。
 広めとはいえ、応接用ソファセットと、事務用の机がひとつ、それから書棚とロッカーを幾つか置くのが限界だ。生活感さえ消し去れば、仕事上の来客があっても問題なさそうだった。事務所として使用する以上、ベッドなどは置けないから、寝る場所はソファにすればいいだろう。
 四谷三丁目はいささか雑然とした場所で、大手企業は少なく雑居ビルが多い。そのためこの界隈は交通の便がいい割に、家賃が意外と安いのだ。新宿御苑(ぎょえん)にほど近くて環境はまずまず、買い物も困らない。
 何より重要なのは、日毬の家から歩いてこられることだった。徒歩でも一五分ほどで到着できる距離だから、日毬が通いやすいと思ったのだ。芸能事務所はタレントこそが商品であり、何事もタレント優先にすべきである。
 一通り部屋を見終わった日毬は俺に熱い視線を向け、感じ入った様子で口にする。
「ここから、私の新しい政治活動が始まるんだ。颯斗に出会ったおかげで、何もかもが上手くいくような気がしている。私にとって颯斗は運命の人だったんだと思う」
 恋人に告白でもしているように思われかねない言葉だったが、日毬は心の内をストレートに表現する子であると今ではわかっていた。そんな日毬に慣れてしまえば、裏表がない子だけに、一緒にいてとても居心地がいい。
 こんな狭っ苦しい事務所なのに、日毬はひたすら感動しているようだった。
「喜ぶのはまだ早いぞ。上手くいくかどうかは、俺が日毬の仕事を獲ってこられるかどうかにかかってる。あんまり期待されると、プレッシャーになっちまうな」
「す、すまない。颯斗にプレッシャーをかけるつもりは毛頭なかった。私は颯斗を信じているということを伝えたかっただけなんだ……。どうか私のことを見捨てないで欲しい……」
 胸の辺りを両手でギュッと握りしめ、切々と日毬は訴えてきた。普段は剛健なのに、日毬はときどき弱々しい少女のような顔を見せる。
「バカ。見捨てるかよ。俺も日毬と同じく、一度決断したことは最後まで貫き通すタチでな。一緒に頑張るって決めただろ。心配するな」
 そう言って、日毬の頭にポンと手を置いた。
 しばらく日毬は呆然とした表情で俺を見上げていた。やがてハッとした日毬は視線を落とし、はにかんだ。
 ちょうどそのとき、チャイムが鳴った。
 前に住んでいたようなオートロックではない。玄関の小穴から覗いてみると、由佳里だった。
「よう。早かったな。上がってくれ」
 ドアを開けると、荷物を抱えた由佳里はドタドタと部屋に踏み込んでくる。
「ちわーッス。ここですかぁ」
 荷物を応接用のテーブルに置き、日毬を見やった由佳里は笑顔を向ける。
「こんにちわ、日毬ちゃん」
「うむ。由佳里も健やかで何よりだ」
「これ、超差し入れです。お父さんから!」
 由佳里は持ってきた荷物に手をかざした。
 中くらいの寿司桶が三重になっていた。見れば寿司が詰め込まれていて、とても三人で食べきれる量じゃなかった。
「こんなに……。すまんな、ここまでしてもらって……。後でお礼言いにいかないと」
「いいんですって! 先輩はうちの上客なんですから、このくらい当然です。今さっき握ってもらったばかりですよ。電車で持ってくるの、結構大変でした」
 いそいそと寿司を広げ、別に買ってきたらしい飲み物を由佳里は取り出していく。
「仕事の話は後にしましょう。さあさあご両人、まずは事務所開きと行こうじゃありませんか!」
 ビール二本と麦茶を取り出した由佳里は、麦茶を日毬に差し出す。
「はい、日毬ちゃん」
「ありがとう。恩に着るぞ」
「はい先輩。乾杯しましょ」
「由佳里は仕事中だろ。いいのかよ?」
 受け取りながら俺は訊いた。
「今日だけは、仕事中の飲酒は別腹です。部長だって、先輩の事務所開きだったって言えば絶対見逃してくれますから!」
「希望的観測だな。どやされるぞ」
「いいんですって。重要な取引先の事務所開きですよ。この重大極まる仕事に参加しないわけにはいかないじゃないですか」
「つーか、勝手にやってきて、自分で事務所開きおっぱじめようとしてるのは由佳里だろ……」
「新しい仕事を始める前に、ちゃんと関係者一同揃って気勢を上げた方がいいよね、日毬ちゃん?」
「そうだな。私も心機一転、気持ちの切り替えができる。儀式的な行為も時には必要なことだ」
「でしょでしょ」
「ったく……自分の会社みたいに振る舞いやがる。そもそも由佳里は関係者なのかよ……。まぁいいや。また由佳里に乗せられてやろう。オヤジさんのご厚意もあることだしな」
「ささ、そうと決まれば乾杯といきましょう」
 由佳里に促され、俺たちは揃って缶の栓を開けた。
 俺は日毬に言う。
「乾杯の音頭(おんど)は日毬にやってもらおうか。うちのスターだからな」
「了解した。その任務、一所懸命に引き受けさせてもらう。やり遂げてみせよう」
 日毬はやたらと熱心な表情で、麦茶を片手に一歩進み出た。
「真正なる右翼は、日本に私ただ一人である。諸君、私は国のため戦う。混迷する政府を立て直し、政治に本当の力を取り戻すことが私の使命だ。諸君、私は国のため戦う。日本を再び、世界史上に輝ける国家へと変貌させることが私の人生のすべてである。天子様の臣民にして忠実なる日本国民――神楽日毬が今ここに、我々の政治的前進のための決意を込めて、乾杯の音頭を取り仕切らせて頂く」
 とても事務所開きの乾杯とは思えない、凄まじい文言の前ぶりだった。
 これにはさすがに由佳里さえ、呆気に取られたようだった。
 構わず日毬は缶を掲げる。
「大日本の未来のために……乾杯!」
「かっ、乾杯!」
 慌てて由佳里が後に続いた。
 俺も缶を掲げる。
「乾杯」
 缶を打ち鳴らした俺たちは、飲み物を(あお)った。
 満足げに日毬が言う。
「美味い。祖国の繁栄を誓い合った乾杯の後なら、麦茶でもこれほど美味しく感じるのだな」
「ぷっはー、仕事中のサボりビールは最高ですね!」
 由佳里が持ってきた寿司を広げて箸を手渡してきた。
「いただきます」
 日毬は両手を合わせて目を瞑り、丁寧に言った。こういう礼儀に日毬は厳格だ。
 寿司を摘みながら、由佳里が事務所を見回す。
「ここは事務所兼自宅ってわけですよね。先輩、どこで寝るんですか?」
「そりゃここだよ、ここ」
 俺は、今座っているソファを指で示した。
「これ、ただのソファじゃないですか。寝た気になれませんよ。そのうち身体の節々が痛くなることは確実ですね」
「ジジイじゃないんだし、大丈夫だっての。男ならこんなもんで十分だろ」
 ふと日毬は気づいたように言う。
「良かったらうちに住んでもいいぞ。女所帯だが、颯斗なら大歓迎だ。ここからも近いし、颯斗と一緒に事務所に出勤できたりすると私も嬉しい」
「それはちょっとな……。日毬は高校だってあるし、一緒に出勤というわけにもいかないだろう。気持ちだけもらっておくよ」
 あの厳正極まる家に住むとなれば、毎日気を遣いすぎて、営業どころではなくなってしまうに違いない。
「時々、日毬ちゃんってドキッとするようなことを平気で言うわよね〜。きっと(けが)れていない証しなのよ。その素直さが羨ましいなぁ……」
 ひとしきり羨望の眼差しを日毬に向けた由佳里は、今度は俺を向く。
「ところで先輩、会社の登記はこれからですか?」
「ああ。今日、法務局に登記を出してきたところだ。見せてやる。ちょっと待ってな」
 俺は箸を置いて立ち上がり、机に向かった。
「えー、いつの間に? 私も役員ですよね? 会社名とかは!?」
 立て続けに由佳里が質問を発したが、それには答えず、机から法務局へ提出した書類のコピーを引っ張り出した。
 それをテーブルに広げると、由佳里は興味津々で覗き込む。
「会社名……株式会社ひまりプロダクション……。そのまんまやないかー、って突っ込むべきところですか?」
「何でも良かったんだがな。良い名前が思い浮かばなかったから、会社の目的そのものでいいかなってさ」
「私の名前を付けたのか?」
「ああ。嫌だったか?」
 俺が訊くと、日毬はフルフルと首を振った。
 由佳里が首をかしげる。
「良い名前だと思いますけど……将来、プロダクションが大きくなったら、日毬ちゃんだけじゃなく、所属タレントさん増えていきますよ?」
「別にいいだろ。日毬から始まったのは事実なんだし。それに、たくさんタレントを所属させるような先のことまでは考えてないよ」
「私がどんどんスカウトして所属させていきますから。……あ! ていうか! まずは私が所属しますから! 昼の顔は蒼通勤務、でも実態はスーパーモデル兼女優ってことでどうです? 蒼通の営業で、自分をCMに売り込んじゃったり」
「うっせ。一人で勝手にやってろ」
 提出書類を次々にめくっていった由佳里は、ふと声を上げる。
「私が役員に入ってなーい! 日毬ちゃんもないですよ!」
 役員は俺一人だ。そもそも由佳里を役員に入れるなら、ずっと前に声をかけて必要書類に判を押してもらっているだろう。
「あのな……こんなちっぽけで、役員報酬だって出ないような会社の役員になって、嬉しいか? つーか由佳里、それ以前に蒼通の社員だろ。会社に届け出たりするのは面倒だぞ」
「フツーに自分の実家が経営する会社の役員になってる人とか、いますけどね。ひまりプロダクションは個人企業だし、きっちり届け出る必要もないと思いますよ」
「じゃあそのうちな。別に由佳里を参加させたくないわけじゃねえよ。由佳里に何のメリットもないと思っただけさ」
「私のメリットを気にするなんて水くさいですね。私と先輩の仲じゃないですか。先輩、お金の方は大丈夫です? 多少ならお貸ししますよ。本当にちょびっとですけど!」
 資本金の額を見やった由佳里は、そんなことを言った。資本金は一〇〇万にしておいた。手持ちのお金の範囲内なら、こんなものは幾らでもいいのだ。
 以前、由佳里が指摘していた通り、プロダクション経営に経費なんて何もかからない。せいぜい家賃くらいなものだ。
 資本金で足りなくなれば、俺が会社に貸し付ける形にした方が楽でいい。会社の資本金として手持ちのお金を入れると、そのお金の運用状況をきちんと決算で報告しなくてはならない。しかし俺が会社に貸し付けるお金なら、その分は比較的自由に出し入れができる。
 なんだかんだで、由佳里も心配してくれているのだろう。もともと言い出しっぺは由佳里である。
 黙々と寿司を食べていた日毬が言う。
「このお寿司、本当に美味いな。よほど心を込めて作ってくれたのだろう。食事は常に腹八分目だと心得ているのに、これではつい食べ過ぎてしまうぞ」
「日毬ちゃんも今度、お父さんのお店に食べにきてね。お代は大丈夫だよ、先輩が払ってくれるから!」
「言っとくが、今までみたいに足繁(しげ)くは通ってやれないぞ」
「由佳里の父上が握ったものなのか?」
 日毬は顔を上げた。
「うん。長いこと築地でお寿司屋さんやってるの。そのおかげで築地市場に顔が利いて、その日に一番活きのいいものを優先的に譲ってもらえるんだって。子供のころは私も市場に入り浸りだったなぁ」
「素晴らしい仕事だな。父上は日本人の(かがみ)のような方だ。ぜひとも精進を重ねていってもらいたい」
「このところ景気が悪くて、あんまりお店の状況は良くないらしいけどね。その分、先輩に通ってもらわないと」
 俺は肩をすくめる。
「あっちの方に行くことがあったらな。日毬と一緒に寄ってやろう。……つーか由佳里……ちょっと飲み過ぎじゃないか……? 仕事中なこと忘れんな」
「あー、そうですね。ここで一眠りさせてもらってもいいんですが……そろそろ会社に戻らないと」
「酔い醒ましてから戻れよ。と、その前に、今度の仕事の話で来たんだろ。ちゃんとそのことを話していってくれ」
「そうでしたそうでした。これ、撮影のスケジュールです。流れは先輩ならわかると思うんで、書類だけ置いていきますね」
 由佳里はバッグから書類を引き抜き、俺に渡してきた。
「了解した。うちのプロダクションとしても初仕事だからな。精一杯やるよ」
 再び席を立った俺は、机に置いてあったプロフィールを由佳里に預け渡す。
「それからこれ、日毬のプロフィールだ。暫定的なものだが、持っていってくれ」
 日毬と相談して作っておいたプロフィールだ。
 貼り付けてある写真は、ひとまずデジカメで撮ったものである。あとできちんとプロに撮影してもらったものを用意するつもりだ。
 プロフィールに視線を走らせた由佳里が凝固する。
「……プロポーション、こうして数字で見せられるとショックなんですが……」
「でもさ、もっと良く見えるだろ? 数字を多少は(かさ)まししようと思ったんだが、日毬が許してくれないんだ」
「学校の健康診断の数字は適切なはずだ。颯斗は誇張しようとしすぎる」
 すかさず日毬がそう言った。
「大した誇張でもなかったけどな。みんな修正してるもんだぞ」
 日毬のプロフィールのスリーサイズは上から89、58、87と大変立派なものだが、見た目にはもっと良いプロポーションをしているように思える。日毬の身長は一五七センチとあまり高い方ではないため、数字上より良く見えるのだ。水着撮影すれば、かなりのプロポーションに映るだろう。それに一六歳だから、まだ成長の余地もあるに違いない。だから俺は93、58、89と書いていたのだが、日毬の強硬な反対により、正しい数字に修正したのだった。
「日毬ちゃん、本名でやるの?」
「当然だ。芸名など(いさぎよ)くない。私には神楽日毬という素晴らしい名前がある」
 日毬は胸を張った。
「芸名にしておいた方がいいって説得したんだけど、どうしても本名で勝負するって言うんだよ。日毬らしいと言えばらしいんだけどさ」
「芸能人が本名だと、あんまり良いことないわよ。タレントでも歌手でも映画監督でも小説家でも画家でも、大半は芸名を使ってるの。批判に晒される職業は、表に出る部分は別人格を用意していた方が無難だと思うけど……」
 俺と由佳里の言葉に、日毬は決然と応じる。
「私はあらゆる批判と正面から戦うまでだ。国家を変える大業は、あらゆるものと向き合わなくてはならないのだからな」
「そっかー。結構大変だと思うけどなぁ。……おおっと、これ以上は長居していられません。じゃあこれ、頂戴していきますね」
 プロフィールをバッグに詰めながら、由佳里は日毬を向いて口にする。
「来週にはポスターの撮影と、VTRの収録、両方あるからね。日毬ちゃんの記念すべきデビューになるから、頑張って」
「わかった。国防のため死力を尽くそうと思う。任せてほしい」
 それから由佳里は慌ただしく会社に戻っていった。結局、ここにはビールを飲みにきただけのようなものだった。仕事の息の抜き方もわかってきたのだろう。
 俺と日毬は残った寿司を摘みながら台本の確認をしたりして、事務所開設初日を過ごしたのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

神楽日毬(かぐらひまり)

日本の未来を憂う女子高生。雨の日も風の日も、たゆまぬ努力を重ねて政治活動に励んでいる。

織葉颯斗(おりばはやと)

日本最大の広告代理店、蒼通の社員。営業先に向かう途中、街頭演説の最中だった日毬と出会うことになる。

健城由佳里(けんじょうゆかり)

日本最大の広告代理店、蒼通の社員。新人として織葉颯斗の営業に研修のため同行していたとき、演説中だった日毬に出会う。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み