右翼的な彼女(5)

文字数 5,237文字

 由佳里の父親が経営している寿司屋に、俺と由佳里はやってきていた。一〇席のカウンター席しかない、こぢんまりとした寿司屋だ。築地で長く営業している老舗(しにせ)であり、常連客だけで経営はなんとか成り立っているらしい。
 最奥の席で、俺と由佳里は刺身の盛り合わせを摘みながら熱燗(あつかん)を飲んでいた。会社から遠くはないので、由佳里とサシで軽く飲むときはここにやってくるのである。どうせお金を落とすなら、由佳里の実家で落としてやった方がいい。
 それに由佳里のオヤジさんは腕も良く、この店の食材のレベルは相当に高かった。俺は美食家ではなく、牛丼だろうがコンビニ弁当だろうが何でも食べるが、これでも幼少のころから最高峰の料理人や食材に囲まれてきて舌は肥えている。その俺が美味いと感じるのは結構なレベルということだ。
 熱燗を一口呷(あお)った由佳里は、俺に視線を向けてくる。
「先輩、本当に辞めちゃうんですか? せっかく蒼通に入れたのに、まったく信じられないですよ」
「価値観の違いだ。俺は別に、蒼通がすがりつくほど素晴らしい会社だとは思っちゃいない。俺のオヤジなんて、蒼通をクズ呼ばわりしてるからな」
「そうかぁ……私はしがみつきたいですよ。お給料はいいし、取引先も私たちのことを、みんな下にも置かないですからね。やっぱり先輩みたいな富豪と、私みたいな庶民じゃ、そういうところからして違うんでしょうか」
「あのな、俺はちっとも富豪じゃねーぞ。家も賃貸だし、貯金だって由佳里とそんなに違いがあるとは思わない。オヤジから出してもらった金は大学の学費だけで、学生時代の生活費だってバイトして稼いできた。実家と俺はまったく違う」
「でもそれは家庭の教育方針ってだけであって……いずれ財産は先輩のものになるんでしょ? だったらやっぱり富豪だと思うなぁ」
「織葉家は弟が継ぐ。俺にはもう無関係のものだ。ほとんど縁を切ってるようなものさ。そんなこんなで、一から出直してみようと思ったんだ」
 ふと由佳里が、思いついたように声を上げる。
「そもそも織葉家って、どのくらいの財産があるんです?」
「そうだなぁ……大雑把なところだと、東王印刷の持ち株だけで七〇〇〇億……その他、うちの家が創業に関わった三和(さんわ)製薬や交北(こうほく)建設の株……それから不動産まで諸々(もろもろ)含めれば、まぁ一兆三〇〇〇億ってところだろう」
 大雑把に俺が計算しただけで、由佳里は度肝を抜かれたような表情をした。
「うっは……ケタ違いすぎ……」
「だけど現金で持ってるわけじゃない。大半は株と不動産になってるわけだから、俺の家族は、お金持ちだなんて実感を誰も持っちゃいないよ。株だって、うちが支配権を維持するためには換金できない性質のものだ。自由に動かせる金は、実はそんなにない」
「ていうか、どうして弟さんが継ぐんです? 先輩なら実力があると思えるんですが」
「そうでもないさ。俺と比べれば、悠斗――弟の方が優秀だ。それは俺も認める」
「私から見れば、先輩はかなーり優秀ですよ。蒼通の誰よりも。お世辞じゃないっす」
 由佳里は本気で言ってくれたようだったので、俺も真摯(しんし)に状況を説明してやりたいと思った。それに俺たちの仲で、隠し立てするようなことでもない。だが、どうやって説明してやればいいだろうか。俺は悩みながら口にしていく。
「うーん、そうだな……目先の仕事ができるできないっつう単純な問題じゃないのかもしれない。戦術じゃなくて戦略的な話だ。もっとこう、一言で説明しがたいけど……こうな……」
「庶民にもわかるように説明してください。両手で空気をこねくり回して見せてくれたって意味不明ですよ」
「……じゃあひとつ具体例を挙げようか。あれはたしか……俺が小学校六年生の正月だった。ということは悠斗は小学三年生だな。新年早々、俺たちは兄弟揃(そろ)ってお年玉を渡された」
「ふむふむ」
(いく)らだったと思う?」
「え? さ、さあ……。先輩の家なら……一〇万円とか……?」
 由佳里の答えに、俺は(はばか)ることなく腹を抱えて笑った。しきりに富豪と庶民とを区別する由佳里を奇妙に思っていたのに……一〇万円という庶民的な発想に思わず吹きだしてしまったのだ。
 激しく両腕を上下させ、由佳里が抗議してくる。
「そんなに笑うことないじゃないですか! もしかして金額が少ないってことですか?」
「悪い悪い。だってやたら具体的で由佳里っぽい金額だから、ついな」
「あんまり庶民をバカにすると、革命起こされちゃいますよ?」
 俺は咳払いをして口にする。
「白紙の小切手だよ。お年玉が。小学生にだぜ?」
「白紙の……小切手!?」
 由佳里は意表をつかれたようだった。
「ああ。オヤジがペンと一緒に渡してくるわけだ。俺と悠斗に、好きな金額を書き込めってな。で、ここからが本題だ。俺たちは幾らを書き込んだと思う?」
「それはわかった! 一〇〇万円! 子供なら一〇〇万円ですよ」
「その金額はわかるような気がするな。惜しい。悠斗は一〇〇〇万と書いた。そして本当に悠斗は、一〇〇〇万をもらったよ」
「ほわ〜。小学三年生が一〇〇〇万……」
 由佳里は呆気(あっけ)に取られたような声を出した。
「まぁたぶん悠斗は、適当にゼロの数を書いただけだと思うけどな。……そして肝心の俺だ」
「先輩ならもっとゼロを適当に書きそうなんで、一〇〇〇億とか? それでお父さんを怒らせちゃったと」
「違う。三九八〇円だ」
 俺の答えに、由佳里が吹き出す。
「……プッ。すみません……」
「いいよ。笑うところだ。ちょうど俺には欲しくてたまらないゲームソフトがあってな。それが三九八〇円だったんだ。俺が喜び勇んで差し出した小切手を、オヤジは哀しげな面持ちで見下ろしてた。そのオヤジの顔を、俺は今でも覚えてる。……器小さいと思うだろ? 今振り返れば俺も思うよ。反論ねーよ。俺は本当に三九八〇円を貰ったよ。その時は嬉しくて、金を握りしめてゲームソフトを買いに行ったんだ」
「……」
「それからこんな話もある。俺が高一、悠斗が中一のとき、オヤジ名義の一〇〇〇万円が入金された証券口座を渡された。オヤジは言った。『三ヶ月間、この金を自分で運用して増やしてみろ』とな。オヤジなりの、子供に対するテストのようなものだったんだろう」
「さすが、経営者一族ですねー」
「悠斗はその金を、三ヶ月後には一三七〇万円にした。まだ中学一年だってのに立派なものだ」
「じゃあ先輩は?」
 ワクワクした表情で由佳里は聴き入っていた。
「そう、それが問題だ。三ヶ月後、俺の一〇〇〇万円は幾らになったと思う?」
「それは簡単ですよ。大幅に減らしたんですよね。きっと運用を大失敗して、元手を五〇万円にまで減らしちゃったんだと思います」
「大ハズレ。俺は三ヶ月で、二億円の損を出した。つまり、マイナス一億九〇〇〇万円だ」
 由佳里は息を吞む。
「マジすか。むしろ元手一〇〇〇万円なのに……二億円の損を出すのが凄いんですが……」
「忘れもしない、為替(かわせ)取引だ……。子供だから加減を知らなくて、たった一取引に全開でレバレッジをかけててさ。日銀がなぁ……日銀が突然介入したんだよ……。そして俺は大損だ。高校生ながらに、心臓が止まる寸前だったんだぞ。オヤジに告げるのが怖くて……証券会社が追証を要求してくるまで隠してた……。それが余計にオヤジの怒りに触れちまって……」
 俺はうなだれて続ける。
「ああそうさ、俺が悪かったよ……。それからオヤジは二度と俺に資産運用の訓練をさせなかった。俺もトラウマで、あれ以来、株式や相場には一切手を出したことがない」
「それは……トラウマになりますね……」
「当時、オヤジが東王印刷から受け取る公式の年俸は、せいぜい一億くらいだったはずだから……その二倍以上……。むしろオヤジの方が、よっぽどトラウマになってるんじゃないか」
 俺は熱燗を(あお)り、うんざりして続けてゆく。
「俺たち家族には、こんな逸話が山ほどある。一日じゃ語り尽くせないほど、山ほどだ。……ああ、わかってるよ。俺がオヤジから邪険にされるのは当然なんだ。そしてオヤジはそれをハッキリした態度で示すようになってきて、俺も反発し続けるようになっていた。オヤジはわざととしか思えないほど、俺と悠斗を差別した。今だから客観的に状況を振り返ることができるけど、子供の頃の俺は怒りの持って行き場がなかったんだ。オヤジが憎くて憎くて堪らなかった。今でもやっぱり、俺はオヤジが嫌いなままだ。できれば二度と顔も見たくない。正直、俺とオヤジの仲は一朝一夕には語れない、もはや修復不可能なものなのさ」
「……率直な感想を言わせてもらいますね」
「なんだ? 遠慮せず言ってみな」
「話を聞いてると、それ、実力の有る無しじゃなくて、個性の問題に過ぎないと思いますね。本当に。なんか、先輩の方が個性が(とが)ってて、本当は弟さんより、ずっと秘めた実力を持っているのかもしれませんよ? そんな気がしました」
「へえ……そういう見方もあるんだな。その意見、ちょっと新鮮だったぞ」
 少しばかり感心して、俺は由佳里を見やった。
 由佳里はイタズラを前にした子供のような顔で言う。
「ところで今度、弟さん紹介して下さい。きっと私、好きになると思うんです」
「うっせ。なかなか良い意見だと思ったのに台無しだ」
「あはは、冗談ですよ。やっぱり私は、先輩と弟さんの違いは、個性だけだと思いますね。先輩にだって多少は財産を主張する権利があるんじゃないですか?」
「そんなみっともないことを俺はしない。端金(はしたがね)なんて幾らあっても大したことはないんだ。それよりも、富裕層に囲まれて過ごしてきたからこそ、自身の能力や人の縁の方がはるかに重要だってことを、俺はこの目で見てきたよ。だから俺は悠斗と事を構えるようなことはしない。オヤジや悠斗に助けを求めるようなこともない。俺は俺の力で、彼らと対等に向き合っていくつもりさ」
「……うーむ、風格ですねぇ。その辺の成金っぽい男の人とは違います。私、これでもお金のある男の人に結構言い寄られますけど……先輩と比べれば全然ダメに思えてしまいます。目先の財力をこれ見よがしにチラつかせて女の子の歓心を買おうなんて、情けないったらありません。……あーあ。先輩と会わなきゃ良かったのに。どうしたらいいんでしょうね!」
「由佳里の場合、普段からツンと澄まして、お高く構えることを学んどけ。由佳里はそのくらいの方が、優秀な男を捕まえられるだろう」
 他のお客さんに寿司を握りながらも、俺と由佳里のやり取りに耳を傾けていたのだろうか、店主である由佳里のオヤジさんが俺たちの話に割って入ってくる。
「もらい手があるうちに、良い人を見つけてくれればいいんだがねぇ。うちの経営も厳しいから、早いとこ娘を嫁に出して、あとはゆっくり暮らしたいよ」
「もらい手ならジャンジャンいるもん。あまりにたくさんいすぎて選びきれないくらいなんだから!」
 すかさず由佳里が反論した。
 俺もオヤジさんに同調する。
「その割には男っ気あるように見えんけどな。そろそろ仕事も覚えたろ。残業は適当に切り上げて、たまには遊びにでもいくようにしろ」
「そうします。仕事での力の抜き方もわかってきたんで。近いうちにパワー増しますから」
 オヤジさんが俺に訊いてくる。
「そろそろ何か握る? 織葉さんはうんと安くしとくから、どんどん頼んじゃってよ」
「じゃあまずはイクラとサーモン、お願いします」
「はいよ」
 由佳里も続いて注文する。
「お父さん、江戸前穴子ね」
「ダメだ。他のにしろ」
「えー!? なんでー!?」
「お前はネタの仕入れ価格知ってるだろう。由佳里は安いの限定だ」
「どうせ先輩持ちだし! 物凄い勢いでガンガン頼んじゃった方がいいよ!」
「だったら尚更だろう……。ちょっとは遠慮ってものを知らないのか」
「江ッ戸前あっなごー!」
 由佳里は子供のように、(はし)で食器を打ち鳴らし始めた。少し酔いも回っているのだろう。
「ったく……この娘は……」
 啞然とするオヤジさんに、俺は言う。
「いいですよ。江戸前穴子、握ってやってください」
「すいませんね、こんな娘で……。本当にいつもいつも……」
 ひたすら申し訳なさそうにしつつも、オヤジさんは由佳里に江戸前穴子を握ってやった。寿司ゲタからはみ出すほどに大きい穴子を、由佳里は嬉々としながら一口でほおばった。
 この親子のやり取りをみていて、しみじみと感じる。うちの家庭とはまったく違う。この親子の温かいやり取りを、心底から(うらや)ましく思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

神楽日毬(かぐらひまり)

日本の未来を憂う女子高生。雨の日も風の日も、たゆまぬ努力を重ねて政治活動に励んでいる。

織葉颯斗(おりばはやと)

日本最大の広告代理店、蒼通の社員。営業先に向かう途中、街頭演説の最中だった日毬と出会うことになる。

健城由佳里(けんじょうゆかり)

日本最大の広告代理店、蒼通の社員。新人として織葉颯斗の営業に研修のため同行していたとき、演説中だった日毬に出会う。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み