アステッドプロ(9)
文字数 3,950文字
突然、同業社であるアステッドプロから「ぜひ会いたい」という連絡が入り、俺は日毬と一緒に、事務所で先方がやってくるのを待っていた。同業他社といっても、ひまりプロダクションとアステッドプロでは、力に隔絶の違いがある。
アステッドグループは、芸能界のドンと噂されるアステッドプロの仙石 社長が創り上げた、芸能プロダクションを中核とする企業グループだ。株式会社アステッドプロはグループの一角にすぎず、傘下の系列プロダクションが山ほどあった。一見、無関係に見えるプロダクションでも、実際には資本関係や人的関係を通じて、アステッドの強い影響下にあるとささやかれている会社は多い。
芸能界で生きていくためには、アステッドプロと何らかの関わりを持たなくてはならないと言わしめるほどの権勢を誇っている。実際、アステッドが間接的に多数のタレントを押さえているので、テレビ局も頭が上がらないのが実態だった。もしもアステッドにそっぽを向かれたら、タレントの供給がなされず、番組作りなどできないのだ。
また、飲食業や不動産業にまで進出し、大きなグループを形成していると指摘されているが、すべての関連企業が非公開企業であり、実態が判然としない。ここが何より理解を困難にしている部分だが……資本関係すらないのに、親分子分のような人的関係で企業グループが繫がっていると言われ、どこまでがアステッド関連なのか部外者にはわからないのだ。
黒い噂も絶えない、押しも押されもせぬ芸能界のトップ企業である。そんな企業でも、社長の仙石氏は意外と真面目で、仕事熱心であることでも知られていた。
アポイントの連絡があったのは女性の秘書らしき人物だったし、俺はもっと若い営業マン然とした相手がやってくるのだと思っていた。タレントとして日毬が急速に台頭し始めたので、「挨拶に来い」くらいのことを言われるのだと俺は思い込んでいた。
だがしかし、やって来たのは使いの者ではなさそうだった。
相対したのは六〇代の、物腰柔らかな紳士。もう一人、どことなく危ない雰囲気を持つ五〇代前半の男も同行している。ただならぬ空気だ。
俺は日毬と一緒に、如才なく彼らを出迎えた。
六〇代の紳士が名刺を差し出してくる。
「やあどうも。アステッドの仙石だ」
――社長!?
噂の仙石氏……。初めて見た……。仙石氏自らが、こんなワンルーム事務所に何をしに来たというのだ……?
続いて、もう一方の男。歳の頃は仙石氏より一回り若い印象である。
「お初にお目にかかります。アステッドの狩谷 です」
――常務まで……?
何事だろうか。ただ事ではない。俺は気を引き締め直した。
「ひまりプロダクションの織葉です。仙石社長や狩谷常務がわざわざ足を運んで下さるとは思っておりませんでした。ご足労、ありがとうございます」
丁重に挨拶してから、俺は日毬に挨拶するよううながした。
「神楽日毬だ。政治結社日本大志会の総帥を務めている。私の目的は日本の頂点に立ち、国家を背負うことにある。支援をお願いしたいところだ」
日毬は政治結社の名刺を差し出した。プロダクションの方の名刺は用意していないから大目に見るしかない。それに日毬の政治結社は、すでに日本全国でニュースになっていることだ。今さら隠す必要もない。
名刺交換を済ませたところで、アステッドの二人と俺たちは、ソファに向かい合って腰かけた。
出し抜けに仙石社長が万年筆を取り出し、日毬の顔にあてがうようにしながら口にしていく。
「うん……いいねぇ……。目鼻立ちと輪郭 のトータルバランスが絶妙だ。あとは君自身が持つ内面のディテールを積み重ねていけば、これから年齢を経るほどに、この美貌は他の名女優たちをも凌いでいくだろう」
唐突に、顔のすぐ傍まで万年筆を突き立てられた日毬はさすがにムッとしたようで、眉間にシワを寄せる。
「なんだそれは? 目の前で人の顔を、まるでモノであるかのように観察するなど、失礼だとは思わないのか? なんたる客だ。追い返せ」
「手放しで絶賛したつもりだったんだけど……お気に召さなかったかな?」
「ほう? 貴公の褒め方は少しばかり捻 くれているようだな。捉え方によっては、人をバカにしているようにしか思えんぞ」
「それは失礼。気に障ったら許して欲しい」
仙石社長は苦笑しつつ、頭を下げた。
慌てて俺は日毬に言う。
「日毬……ちょっと外出していてもらえるか? あとは俺の方で話すから」
「ん? 別に構わないが、私に同席するように言ったのは颯斗ではないか」
「すまん……。とにかく、頼む……。今日は仕事の打ち合わせもないから、このまま帰ってもらってもいいからさ。な?」
それから俺は日毬にやんわりと言い聞かせ、家へと帰らせた。
汗を拭きながら再び向かい合う。
「うちの神楽が失礼を申し上げてしまい、誠に申し訳ありません……」
仙石社長はクスクスと笑う。
「本当の本当に、あれが素なんだなぁ。実に珍しく、そして素晴らしいタレントだ。どんなに探しても、あんなダイヤモンドはそうそう見つからない。ますます譲り受けたくなったよ」
「譲り……受ける……? すると……今日の話は?」
二人は、俺の質問には答えなかった。
仙石社長の代わりに、狩谷常務が口にする。
「織葉社長、蒼通だったそうですね。しかも東王印刷の創業者一族とか……。実に筋がいい。すべてお聞きしていますよ」
元蒼通だったことは知っている相手が多いが、東王印刷のことまでは、きちんと調べないとわからないはずだ。どこまで俺のことを調べ上げているのだろうか。
「蒼通はすでに辞めてしまっていますし、東王印刷もぼくには無関係ですよ。今は単なる、しがない自営業者にすぎません」
「蒼通時代は、なかなか優秀だったとお聞きしましたが。引き留められなかったんですか?」
「それほど言われなかったですね。私の意志がそうそう簡単に変わるわけもありません。可能な限り迷惑をかけないように引き継ぎを終えてから、円満に退職させてもらいました。そのおかげもあってか、ACのCM出演の話を回してもらえましたが……正直、蒼通から、もう少し仕事が流れてくることを期待していたんですけどね。これで打ち止めです。あとは私の努力次第ということでしょう」
俺の話を受けて、今度は仙石社長が言う。
「しかし、プロダクション経営は難しい。所詮は明日をも知れぬ水商売。大半は成功しないよ。誰にも知られぬまま消えるだけだ」
「存じております。かといって私も、他にできることをすぐに見つけられるわけでもありません。当面は、この業界であがいてみるつもりです」
狩谷常務が口をはさむ。
「プロダクション経営が上手くいかなければ、筋が悪いところはAV業界に流れたり、もっと怪しげな方面まで流れたりします。しかし元来が筋の良い織葉社長では、ありえない選択でしょうね」
「そうですね、ありえません。神楽のプロデュースに失敗すれば、潔 く撤退しますよ。社名にも謳 っている通りです。もとより、未練を感じる業界でもありませんから」
「確実に成功できるシナリオがあります。そのお話を、今日は持って来たのです」
「その本題とやらを聞かせて頂きましょう。さあどうぞ」
さっさと目的に入れと、遠回しに俺はうながした。
「ズバリ提案します。神楽さんを、うちに譲り渡して頂きたい」
「……想定外ですね」
俺は強い調子で断言した。
狩谷常務は怯まず、淡々と口にする。
「九〇〇〇万円を提示致します。どうです、それで神楽さんを譲渡して頂けませんか?」
「……ノー」
俺の強い意志を見て取ったのか、狩谷常務は早くも値をつり上げてくる。
「一億二〇〇〇万円。これが限度です」
「ノー」
仙石社長と狩谷常務は、チラと顔を見合わせた。
そして狩谷常務がテーブルに身を乗り出してくる。
「いいですか織葉社長、紙切れ一枚にサインするだけで一億二〇〇〇万が手に入るのですよ? この時点で、プロダクションとしては破格の成功です。大成功なんです!」
拳をテーブルに打ち付け、狩谷常務は切々と続ける。
「我々は、神楽さんをスカウトしたという織葉社長の慧眼 だけに、一億円以上の金額を付けるのです。これがどんなに特別なお話か、社長ほど優秀な方ならおわかりにならないはずがない」
「残念ですが……」
俺は首をふった。
「普通の相手ならここで折れるんだけどね。織葉社長のような方は珍しい」
ソファに悠然と腰かけていた仙石社長が、他人事のような口調で言った。
狩谷常務は口にする。
「大変申し訳ありませんが、織葉社長の個人資産も調べさせて頂きました。東王印刷の一族とはいっても……失礼ながら、個人の財産はあまりお持ちではないようですね。今の織葉社長にとって、間違いなく破格の提案なはずです」
「破格かどうかは、あなたが決めることじゃなく、私が決めることでしょう。一億や二億、私にとっては大したお金だとは思いませんね。私自身は、確かに常務がご指摘されたように豊かじゃありません。それでも私は、そういう環境で育ってきたんです。一〇〇〇億というお話ならまだしも、一億なんて値付けで私を動かそうなんて、まるで空虚なことですよ」
「……」
「……」
仙石社長も狩谷常務も押し黙り、しばらく次の言葉がなかなか見つからないようだった。
少しうなってから、狩谷常務が言う。
「一億三〇〇〇万」
「ですから――」
「いい、もうやめろ」
仙石社長が、狩谷常務に鋭く
アステッドグループは、芸能界のドンと噂されるアステッドプロの
芸能界で生きていくためには、アステッドプロと何らかの関わりを持たなくてはならないと言わしめるほどの権勢を誇っている。実際、アステッドが間接的に多数のタレントを押さえているので、テレビ局も頭が上がらないのが実態だった。もしもアステッドにそっぽを向かれたら、タレントの供給がなされず、番組作りなどできないのだ。
また、飲食業や不動産業にまで進出し、大きなグループを形成していると指摘されているが、すべての関連企業が非公開企業であり、実態が判然としない。ここが何より理解を困難にしている部分だが……資本関係すらないのに、親分子分のような人的関係で企業グループが繫がっていると言われ、どこまでがアステッド関連なのか部外者にはわからないのだ。
黒い噂も絶えない、押しも押されもせぬ芸能界のトップ企業である。そんな企業でも、社長の仙石氏は意外と真面目で、仕事熱心であることでも知られていた。
アポイントの連絡があったのは女性の秘書らしき人物だったし、俺はもっと若い営業マン然とした相手がやってくるのだと思っていた。タレントとして日毬が急速に台頭し始めたので、「挨拶に来い」くらいのことを言われるのだと俺は思い込んでいた。
だがしかし、やって来たのは使いの者ではなさそうだった。
相対したのは六〇代の、物腰柔らかな紳士。もう一人、どことなく危ない雰囲気を持つ五〇代前半の男も同行している。ただならぬ空気だ。
俺は日毬と一緒に、如才なく彼らを出迎えた。
六〇代の紳士が名刺を差し出してくる。
「やあどうも。アステッドの仙石だ」
――社長!?
噂の仙石氏……。初めて見た……。仙石氏自らが、こんなワンルーム事務所に何をしに来たというのだ……?
続いて、もう一方の男。歳の頃は仙石氏より一回り若い印象である。
「お初にお目にかかります。アステッドの
――常務まで……?
何事だろうか。ただ事ではない。俺は気を引き締め直した。
「ひまりプロダクションの織葉です。仙石社長や狩谷常務がわざわざ足を運んで下さるとは思っておりませんでした。ご足労、ありがとうございます」
丁重に挨拶してから、俺は日毬に挨拶するよううながした。
「神楽日毬だ。政治結社日本大志会の総帥を務めている。私の目的は日本の頂点に立ち、国家を背負うことにある。支援をお願いしたいところだ」
日毬は政治結社の名刺を差し出した。プロダクションの方の名刺は用意していないから大目に見るしかない。それに日毬の政治結社は、すでに日本全国でニュースになっていることだ。今さら隠す必要もない。
名刺交換を済ませたところで、アステッドの二人と俺たちは、ソファに向かい合って腰かけた。
出し抜けに仙石社長が万年筆を取り出し、日毬の顔にあてがうようにしながら口にしていく。
「うん……いいねぇ……。目鼻立ちと
唐突に、顔のすぐ傍まで万年筆を突き立てられた日毬はさすがにムッとしたようで、眉間にシワを寄せる。
「なんだそれは? 目の前で人の顔を、まるでモノであるかのように観察するなど、失礼だとは思わないのか? なんたる客だ。追い返せ」
「手放しで絶賛したつもりだったんだけど……お気に召さなかったかな?」
「ほう? 貴公の褒め方は少しばかり
「それは失礼。気に障ったら許して欲しい」
仙石社長は苦笑しつつ、頭を下げた。
慌てて俺は日毬に言う。
「日毬……ちょっと外出していてもらえるか? あとは俺の方で話すから」
「ん? 別に構わないが、私に同席するように言ったのは颯斗ではないか」
「すまん……。とにかく、頼む……。今日は仕事の打ち合わせもないから、このまま帰ってもらってもいいからさ。な?」
それから俺は日毬にやんわりと言い聞かせ、家へと帰らせた。
汗を拭きながら再び向かい合う。
「うちの神楽が失礼を申し上げてしまい、誠に申し訳ありません……」
仙石社長はクスクスと笑う。
「本当の本当に、あれが素なんだなぁ。実に珍しく、そして素晴らしいタレントだ。どんなに探しても、あんなダイヤモンドはそうそう見つからない。ますます譲り受けたくなったよ」
「譲り……受ける……? すると……今日の話は?」
二人は、俺の質問には答えなかった。
仙石社長の代わりに、狩谷常務が口にする。
「織葉社長、蒼通だったそうですね。しかも東王印刷の創業者一族とか……。実に筋がいい。すべてお聞きしていますよ」
元蒼通だったことは知っている相手が多いが、東王印刷のことまでは、きちんと調べないとわからないはずだ。どこまで俺のことを調べ上げているのだろうか。
「蒼通はすでに辞めてしまっていますし、東王印刷もぼくには無関係ですよ。今は単なる、しがない自営業者にすぎません」
「蒼通時代は、なかなか優秀だったとお聞きしましたが。引き留められなかったんですか?」
「それほど言われなかったですね。私の意志がそうそう簡単に変わるわけもありません。可能な限り迷惑をかけないように引き継ぎを終えてから、円満に退職させてもらいました。そのおかげもあってか、ACのCM出演の話を回してもらえましたが……正直、蒼通から、もう少し仕事が流れてくることを期待していたんですけどね。これで打ち止めです。あとは私の努力次第ということでしょう」
俺の話を受けて、今度は仙石社長が言う。
「しかし、プロダクション経営は難しい。所詮は明日をも知れぬ水商売。大半は成功しないよ。誰にも知られぬまま消えるだけだ」
「存じております。かといって私も、他にできることをすぐに見つけられるわけでもありません。当面は、この業界であがいてみるつもりです」
狩谷常務が口をはさむ。
「プロダクション経営が上手くいかなければ、筋が悪いところはAV業界に流れたり、もっと怪しげな方面まで流れたりします。しかし元来が筋の良い織葉社長では、ありえない選択でしょうね」
「そうですね、ありえません。神楽のプロデュースに失敗すれば、
「確実に成功できるシナリオがあります。そのお話を、今日は持って来たのです」
「その本題とやらを聞かせて頂きましょう。さあどうぞ」
さっさと目的に入れと、遠回しに俺はうながした。
「ズバリ提案します。神楽さんを、うちに譲り渡して頂きたい」
「……想定外ですね」
俺は強い調子で断言した。
狩谷常務は怯まず、淡々と口にする。
「九〇〇〇万円を提示致します。どうです、それで神楽さんを譲渡して頂けませんか?」
「……ノー」
俺の強い意志を見て取ったのか、狩谷常務は早くも値をつり上げてくる。
「一億二〇〇〇万円。これが限度です」
「ノー」
仙石社長と狩谷常務は、チラと顔を見合わせた。
そして狩谷常務がテーブルに身を乗り出してくる。
「いいですか織葉社長、紙切れ一枚にサインするだけで一億二〇〇〇万が手に入るのですよ? この時点で、プロダクションとしては破格の成功です。大成功なんです!」
拳をテーブルに打ち付け、狩谷常務は切々と続ける。
「我々は、神楽さんをスカウトしたという織葉社長の
「残念ですが……」
俺は首をふった。
「普通の相手ならここで折れるんだけどね。織葉社長のような方は珍しい」
ソファに悠然と腰かけていた仙石社長が、他人事のような口調で言った。
狩谷常務は口にする。
「大変申し訳ありませんが、織葉社長の個人資産も調べさせて頂きました。東王印刷の一族とはいっても……失礼ながら、個人の財産はあまりお持ちではないようですね。今の織葉社長にとって、間違いなく破格の提案なはずです」
「破格かどうかは、あなたが決めることじゃなく、私が決めることでしょう。一億や二億、私にとっては大したお金だとは思いませんね。私自身は、確かに常務がご指摘されたように豊かじゃありません。それでも私は、そういう環境で育ってきたんです。一〇〇〇億というお話ならまだしも、一億なんて値付けで私を動かそうなんて、まるで空虚なことですよ」
「……」
「……」
仙石社長も狩谷常務も押し黙り、しばらく次の言葉がなかなか見つからないようだった。
少しうなってから、狩谷常務が言う。
「一億三〇〇〇万」
「ですから――」
「いい、もうやめろ」
仙石社長が、狩谷常務に鋭く
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