一刀両断(4)
文字数 2,538文字
ある週刊誌からメールで連絡が入り、俺は取材に応じることにした。
取材対象は日毬ではなく、俺だ。「神楽日毬さんに対してテレビ局が豹変し始めたことについて、プロダクションの社長の方に話を聞いてみたい」という内容だったので、取材を受けることにしたのだった。
ひまりプロダクションの事務所にやってきた記者は、挨拶もそこそこに切り出してくる。
「ぼく、神楽さんのファンなんですよ。ああいう子には頑張ってもらいたい。でも、急にテレビがバッシングに転じましたよねー。業界でもいろんな憶測が流れてるんですが、思い当たるフシ、社長にあります?」
俺は肩をすくめて応じる。
「多少は。しかし、確実な証拠なんてありませんよ。だから適当なことをベラベラ喋るわけにもいかない。それは取材を受ける前に、メールでも伝えておいたことですが」
「わかってます。ですが、火のないところに煙は立たないものです。神楽日毬バッシングの発端はズバリ……アステッド、でしょ?」
記者は事前に、ある程度の情報を摑んでいるようだった。
俺はうなずく。
「……と、想像はしています。でも確証なんてないですよ」
「確証を取るのがこっちの仕事なんで、その辺は安心して下さい。大丈夫ですよ」
明るい口調で記者は言った。
しかし、記者の言葉を真に受けるわけにはいかない。もしかすると、記者の言う「確証を取る作業」は、俺に対するインタビューなのかもしれないからだ。墓穴を掘らないよう、慎重に話を進めなくてはならない。
アステッドと抱えたトラブルを、俺は憶測だと幾度も断りつつも、可能な限りオブラートに包んで伝えていった。
しかし、どういうわけか記者は、俺が伝える以上に、このトラブルのことに詳しかった。俺が記者の質問に答えると、その度ごとに、質問を発した当の記者自身が、もっと詳しい状況を自分で補足説明するという奇妙な取材だった。
俺に話を聞かなくても問題ないほど状況を知っているとしか思えない。すでに記事を書こうと思えば書けるはずだ。記事を成立させるためのパーツとして、俺に話を聞きに来ただけに違いない。
一通りの質疑応答が済んだところで、俺は訊いてみる。
「ずいぶんお詳しいようですが……どこでそういうお話を聞きました?」
「制作プロダクションに友達が結構いましてね。先日、古馴染 みと吞んだときに聞いたんです」
もしかしたら『学校DAISUKI!』のプロデューサーが流したのだろうか。俺にあれこれと業界の裏話を語っていたし、噂好きそうなタイプだった。彼ならありうる。なんて狭い業界だろうか。
安心させるように記者が言う。
「神楽さんにとってマイナスの記事にはならないはずですよ」
「ええ。その確信があったから取材を受けました。彼女のファンの人たちに、少しでも状況を知ってもらう足しになればと」
この取材の翌週、週刊誌に記事が出た。
タイトルはこうだ。
『神楽日毬バッシングの真相! アステッドからの圧力か?』
だいたい正確なあらましが掲載されていた。アステッドが持ちかけてきた移籍話をひまりプロダクションが蹴ったこと。そこからメディアの流れが変わったのは、アステッドによる圧力だと業界関係者たちが考えていること――。
ほんの少しでいいから、バッシングが弱まるキッカケになればいい。
だが、週刊誌の記事程度では、大海の中の一滴にすぎないことも事実だ。
世の中に対する影響力は、テレビを一〇〇とすれば、新聞が三、雑誌が二、書籍が一、ネットは一である。そのくらい隔絶の違いがある。テレビは一〇〇〇万単位、雑誌はせいぜい一〇万単位だからだ。だから雑誌ではテレビのバッシングには対抗できない。
そして内容のレベルを下げれば下げるほど、多くの人に届くようになる。テレビはもっとも低レベルのメディアだ。とにかく難しいことは一切言わず、可能な限り簡略にする必要があるのである。
かつて、「街頭を制する者が大衆を制し、大衆を制するものが国家を制する」をモットーにしていたナチス宣伝省ゲッペルスは、ズバリこう言い残している。
「宣伝は、知的レベルの低い階層に合わせるよう心がけねばならない」
さらに、ヒトラーは豪語した。
「大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、すべての効果的な宣伝は、要点をできるだけ簡略化し、それをスローガンのように繰り返しさえすればいい」
小難しい話をされるより、ドラマの話題やアイドルの醜聞や批判の方が大衆には受け入れられるに決まってる。テレビは目でパッと見て、感性だけに身を委ねることができるから、何も考えなくても理解できるメディアなのだ。
雑誌がいくら低俗な記事を書こうとも、どうしたってテレビよりレベルを落とすことはできない。一般的に、文章を読むこと自体が面倒で、ハードルが上がってしまうというのが現実なのだ。日本は識字率が高く、国民の知的水準は他国と比べればマシと言われるが、実際には新聞以外で長い長い文章を読む層は、せいぜい一〇〇〇万。現実問題として、一億人はテレビしか見ない。
それにキー局がわずか五チャンネルしかないのと比べて、文字を読む層は何千何万チャンネルと多種多様にばらけてしまう。ネットになると、さらに細分化される。なによりテレビは無料で、空気のように生活に溶け込んでいる。多くの人にとって、テレビは生活の基軸なのだ。
テレビの影響力と、その他のコンテンツの格差は、言葉で言い表すのもバカらしいほど次元違いのシロモノなのである。だからこそ、民主主義とは即ちテレビのことであり、日毬の政治的な成功には避けて通れない道でもあった。
そして日毬が短期間で飛躍するためには批判は必要不可欠なことだが、テレビが一斉に攻撃に転じてくると、そうも言っていられない。讃辞と批判が激しくぶつかり合ってこそプラスの効果を発揮するもので、批判一色だとマイナスにしかならない。
テレビを敵に回せば、社会で勝ち上がることは不可能なのである。アステッドとのトラブルを振り払う決定的な方法を、俺は模索しかねていた。
取材対象は日毬ではなく、俺だ。「神楽日毬さんに対してテレビ局が豹変し始めたことについて、プロダクションの社長の方に話を聞いてみたい」という内容だったので、取材を受けることにしたのだった。
ひまりプロダクションの事務所にやってきた記者は、挨拶もそこそこに切り出してくる。
「ぼく、神楽さんのファンなんですよ。ああいう子には頑張ってもらいたい。でも、急にテレビがバッシングに転じましたよねー。業界でもいろんな憶測が流れてるんですが、思い当たるフシ、社長にあります?」
俺は肩をすくめて応じる。
「多少は。しかし、確実な証拠なんてありませんよ。だから適当なことをベラベラ喋るわけにもいかない。それは取材を受ける前に、メールでも伝えておいたことですが」
「わかってます。ですが、火のないところに煙は立たないものです。神楽日毬バッシングの発端はズバリ……アステッド、でしょ?」
記者は事前に、ある程度の情報を摑んでいるようだった。
俺はうなずく。
「……と、想像はしています。でも確証なんてないですよ」
「確証を取るのがこっちの仕事なんで、その辺は安心して下さい。大丈夫ですよ」
明るい口調で記者は言った。
しかし、記者の言葉を真に受けるわけにはいかない。もしかすると、記者の言う「確証を取る作業」は、俺に対するインタビューなのかもしれないからだ。墓穴を掘らないよう、慎重に話を進めなくてはならない。
アステッドと抱えたトラブルを、俺は憶測だと幾度も断りつつも、可能な限りオブラートに包んで伝えていった。
しかし、どういうわけか記者は、俺が伝える以上に、このトラブルのことに詳しかった。俺が記者の質問に答えると、その度ごとに、質問を発した当の記者自身が、もっと詳しい状況を自分で補足説明するという奇妙な取材だった。
俺に話を聞かなくても問題ないほど状況を知っているとしか思えない。すでに記事を書こうと思えば書けるはずだ。記事を成立させるためのパーツとして、俺に話を聞きに来ただけに違いない。
一通りの質疑応答が済んだところで、俺は訊いてみる。
「ずいぶんお詳しいようですが……どこでそういうお話を聞きました?」
「制作プロダクションに友達が結構いましてね。先日、
もしかしたら『学校DAISUKI!』のプロデューサーが流したのだろうか。俺にあれこれと業界の裏話を語っていたし、噂好きそうなタイプだった。彼ならありうる。なんて狭い業界だろうか。
安心させるように記者が言う。
「神楽さんにとってマイナスの記事にはならないはずですよ」
「ええ。その確信があったから取材を受けました。彼女のファンの人たちに、少しでも状況を知ってもらう足しになればと」
この取材の翌週、週刊誌に記事が出た。
タイトルはこうだ。
『神楽日毬バッシングの真相! アステッドからの圧力か?』
だいたい正確なあらましが掲載されていた。アステッドが持ちかけてきた移籍話をひまりプロダクションが蹴ったこと。そこからメディアの流れが変わったのは、アステッドによる圧力だと業界関係者たちが考えていること――。
ほんの少しでいいから、バッシングが弱まるキッカケになればいい。
だが、週刊誌の記事程度では、大海の中の一滴にすぎないことも事実だ。
世の中に対する影響力は、テレビを一〇〇とすれば、新聞が三、雑誌が二、書籍が一、ネットは一である。そのくらい隔絶の違いがある。テレビは一〇〇〇万単位、雑誌はせいぜい一〇万単位だからだ。だから雑誌ではテレビのバッシングには対抗できない。
そして内容のレベルを下げれば下げるほど、多くの人に届くようになる。テレビはもっとも低レベルのメディアだ。とにかく難しいことは一切言わず、可能な限り簡略にする必要があるのである。
かつて、「街頭を制する者が大衆を制し、大衆を制するものが国家を制する」をモットーにしていたナチス宣伝省ゲッペルスは、ズバリこう言い残している。
「宣伝は、知的レベルの低い階層に合わせるよう心がけねばならない」
さらに、ヒトラーは豪語した。
「大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、すべての効果的な宣伝は、要点をできるだけ簡略化し、それをスローガンのように繰り返しさえすればいい」
小難しい話をされるより、ドラマの話題やアイドルの醜聞や批判の方が大衆には受け入れられるに決まってる。テレビは目でパッと見て、感性だけに身を委ねることができるから、何も考えなくても理解できるメディアなのだ。
雑誌がいくら低俗な記事を書こうとも、どうしたってテレビよりレベルを落とすことはできない。一般的に、文章を読むこと自体が面倒で、ハードルが上がってしまうというのが現実なのだ。日本は識字率が高く、国民の知的水準は他国と比べればマシと言われるが、実際には新聞以外で長い長い文章を読む層は、せいぜい一〇〇〇万。現実問題として、一億人はテレビしか見ない。
それにキー局がわずか五チャンネルしかないのと比べて、文字を読む層は何千何万チャンネルと多種多様にばらけてしまう。ネットになると、さらに細分化される。なによりテレビは無料で、空気のように生活に溶け込んでいる。多くの人にとって、テレビは生活の基軸なのだ。
テレビの影響力と、その他のコンテンツの格差は、言葉で言い表すのもバカらしいほど次元違いのシロモノなのである。だからこそ、民主主義とは即ちテレビのことであり、日毬の政治的な成功には避けて通れない道でもあった。
そして日毬が短期間で飛躍するためには批判は必要不可欠なことだが、テレビが一斉に攻撃に転じてくると、そうも言っていられない。讃辞と批判が激しくぶつかり合ってこそプラスの効果を発揮するもので、批判一色だとマイナスにしかならない。
テレビを敵に回せば、社会で勝ち上がることは不可能なのである。アステッドとのトラブルを振り払う決定的な方法を、俺は模索しかねていた。