第37話 本音

文字数 3,169文字

「は……遥君、もしかして子持ち既婚者?」
 遥の肩越しから小さな笑い声がして、可愛らしい手が動くのが見えた。随分ご機嫌のようだ。
「待って、俊郎さん誤解! 誤解だから!」
「いや、誤解というか……別に十九歳なら結婚できる年齢ですし、隠す必要はないです」
「うふっ、あはっ! あははははは!」
 遥の隣の女性が大きな声で笑う。
「あー、おかしい!」
 そのままお腹を抱えて笑う女性の声に反応してか、遥の背後の赤子もキャッキャと笑い声をあげる。
「いい子ですね。遥君も明るいし、親譲りなんでしょうね」
 私の言葉で女性はお腹を押さえてますます笑う。しばらく笑った後お腹を押さえながらこう言った。
「この子、私の兄夫婦の子なんです。義姉(あね)が体調を崩して入院しちゃって、家で預かってるんですよ」
「そういうこと。こいつが銀河だよ。ほらあの短冊書いた幼馴染」
「あぁ……あなたが銀河さんでしたか」
「そうです! 三つ下の階に住んでるんですよ」
「これは大変失礼しました」
「ふふっ……変に落ち着いてるから余計におかしくて! あと、私はちゃんと彼氏いますから!」
 そう言ってまた笑い始めた。
「お子さんが遥君に懐いているからつい」
 銀河さんの書いた短冊は大変勇ましく書かれていたこともあり、勝手に男性だと思い込んでいた。
「今日はこれから保育園に預けに行くんです。この子、おんぶが好きでこうしてるとご機嫌なので」
「そうでしたか、では日傘かフードをしてあげてください。この時間でもかなり暑いです」
「あちゃー、そうだった。はい、遥これ」
「ほい」
「就活中だと伺っていたので色々重なって大変ですね」
「いえいえ、可愛い姪っ子のためですから。遥もこうやってたまに手伝ってくれてるので大丈夫です」
「じゃあ俊郎さん、また午後にね」
「えぇ、気を付けて。お義姉さんにお大事にとお伝えください」
 銀河さんは(うやうや)しく一礼をして、遥と共に出かけて行った。

 翔太が生まれた時、こんなに小さな生き物をちゃんと育てられるだろうかと不安でいっぱいだったな。四年前を思い出し懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
 一度荷物を置いて人事部から出たところで、同じタイミングで隣の社長室から藤田君が出て来た。
「俊郎、何かいいことあったか?」
「えぇ、ちょっと昔のことを思い出してました」 
「そうか」
「今日は朝礼の後でそちらに行きます。昨日小野君から文書を預かっていますので」
「あぁ、あの件な。オッケー」
 朝礼では、デザイン部の中途採用が決まり、宗像さんが連休明けの火曜日から出社する事と、お互いのプライベートへの干渉については控える旨を伝えると――
「ワタクシが遥君にやったように、彼女がいるのか等と根掘り葉掘り聞いてはいけないということです!」
 と自虐的に事例を叫んだ。
 皆はクスクスと笑い、田畑さんは口元を押さえて笑いをこらえている。デザイン部の方ではミーティングの時に別途田畑さんから改めて一言があるだろう。
 今日からは遥が仕事中でも黒のコンタクトレンズを用いるし、周りもなんとなく察するはずだ。

「藤田君、さっきの自虐ネタをやるなら先に教えてください」
「やるって言ったら俊郎は止めるだろうし、止めても俺がやっちゃうの分かってるから変な棒読みで大事なお知らせが皆の耳に入らないだろう」
 棒読みの癖は藤田君もよくわかってるんだな……。
「それに、あのくらい分かりやすい実例言っておいた方がいいだろ?」
 それにしても藤田君も突飛な行動をするからびっくりする。……それが彼の良いところなんだけど。
「相互監視みたいになっちゃうけど、荒れてから厳しくして自由までなくなったら楽しく働ける会社じゃなくなっちゃうからな」
 藤田君自身も先月の遥への質問に関しては、この数日ずっと考えて反省をしていたのだという。
 自由とは自分に責任を持ち続けること。それは会社の理念の一つでもあるし一番色濃く反映されているのがデザイン部でもある。 
「それと、小野君の件ですが――」
 昨日預かった封書を二通、藤田君のデスクに置いた。
「昨日の面談の様子や、それを読む限りでは、十分反省もしている様子です」
「そうか」
 便箋を開いた藤田君の表情は珍しくこわばっている。
「事情を一番知ってるのは俊郎だし、面談で反省してると感じたならこの件はこれで一旦終了でいいんじゃないか?」
 読み終えた藤田君は表情に反して柔和な回答だった。
「これは直接送らず、誠意ある謝罪文の提出があったということだけを伝えてはどうかな」
「そうですね。本人が希望した場合、原本を見せるようにします」
「いや、見せないほうが良いだろう。もしも小野君がおかしな行動をするようであればすぐに報告を」
 まだこれ以上何かするだろうか……?
「それと、鎌田君や北原さんからも、小野君の事で気づいたことがあったら報告してもらおう。俊郎は吉崎さんから相談があったら、全力でサポートしてやってくれ」
「えぇ、それはもちろんです」

 今回のことを機に社内が少しずつ変わっていく予感はするのだが、大丈夫だろうか……。いや、より良い環境になるのなら、それは素晴らしいことだ。元々みんな適度な距離感を保っていて、他人のプライバシーに強く干渉するタイプの人間ではない。
 人事部に戻り、カレンダーに目をやると来週の水曜日は満月だ。
 次の新月の日の予定を入れる際に、遥がついでにと満月の日にも黄色い丸のマークを付けてくれていた。
 今日は大学の期末試験の最終日だし、スッキリした顔で出勤してくることだろう。

 遥はスッキリどころか予想以上の晴れ晴れとした顔で現れた。
「ようやく終わったー! 夏休みー!」
「お疲れ様です。成績は心配ありませんか?」
「これでもちゃんと勉強してたから、何とかなるかな。それで今夜だけど――」
 ガチャリと音がして、小野君が入ってきた。
「俊郎……さん、あのー」
 さすがに今までのように呼び捨てにはしないか。
「どうしたんですか?」
「いやー、その」
 少し気まずそうにしているのは、事情を知っている遥がいるからだろうか?
「あ、俺ちょっと備品の在庫チェックしてくるね!」
 察しがいいな……。
 私の席の前の丸椅子に座ると、小野君が口を開いた。
「なぁ、昨日のアレ吉崎さんに送ってくれた?」
「いいえ、吉崎さんには誠意ある謝罪があったと藤田君と私の連名で伝えます」
「えー……じゃあ、吉崎さんいつ戻ってくんの? 人事はやっぱり正社員のほうがいいだろ?」
 あぁ……。
「……今朝の朝礼の議事録は読んでますか?」
「読んだよ、でもさ……吉崎さんの体調も心配なんだよ。それに……今までの事は直接会って謝りたいんだ」
 もしかして、反省していない……?
「せめて電話番号だけでも」
「彼女のプライベートに関わることですし、ましてやここは個人情報を預かる部署ですから、私からはお話することはできません」
 私の言葉に、ため息を吐いて、肩を落として出て行った。
「はぁ……」
 思わず私もため息が出てしまった。そもそも吉崎さんは既婚者だ。小野君が入り込む隙は無いのに。
 目の前のあの招き猫を手に取る。
 事件の発端は小野君と、この縁切りの招き猫だ。まだ解決していないのかと、平和な顔をしている招き猫の額をつついた。

「ただいま」
 戻ってきた遥が丸椅子に腰かける。
「小野さん、なんの話だったの?」
「吉崎さんの復帰の時期を知りたい、と」
「そっか~。バイトの俺じゃ頼りないもんな……」
「いえ、そういうわけではありません。まだ吉崎さんに特別な好意を持っているようなんです」
 文章は丁寧に書かれていたのに、彼の口ぶりからどうもまだ反省していないように思えてしまう。
「詠むよ、反省文。貸して」
 そう言うと、遥は私の前に手を差し出した。
「いや、でも」
「良いから貸して。詠んだ方がハッキリするじゃん」
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