第77話 八朔

文字数 1,230文字

 月初め。恒例の全体会議があるので、今日はいつもより早い出勤だ。

「もう八朔(はっさく)かぁ」
「遥君、どこでその言葉を?」

 八朔とは、8回目の新月のことで旧暦の八月一日のことだ。

「子供の頃、七熊商店で八神さんから果物のハッサクをもらった時に教えてくれたんだ。新暦だと本当の朔の日とズレちゃうんだけど」

 幼い遥に新月や満月を教える時に、八神さんはそうやって色々なことに紐づけたのだろうか。

「私は八朔というと、江戸時代の吉原(よしわら)の行事の話を思い出すんですよ」
「吉原? って……いかがわしい場所だ!」

 変な顔をしてミもフタもないことを言うな。

「……まぁ、そういう場所ではありますが、当時の吉原は流行の発信地だったり、暦に関する伝統行事はとても重要視されていて、七夕とかお月見などはとても賑やかだったそうですよ」

 七夕とお月見という単語に顔がほころぶ。そう、そういう爽やかな顔のほうが似合っている。

「で、八朔の日には吉原の遊女(ゆうじょ)たちは白無垢を着て客を出迎えたらしいですね」
「へぇー! 俊郎さん、詳しいんだね!」
「いえ、全て祥子さんの受け売りです」
「祥子さんって江戸風俗とかの勉強してたの?」
「日本舞踊で吉原が良く出てくるので、お稽古場の皆さんで勉強会をしたそうです。それで私にも話してくれたんですよ」
「え、日本舞踊やってるんだ。すごい!」
「やっている、というかそういう家の人なんです」

 私の祖母と祥子さんのお母さんが師弟関係で、そのご縁で私たちは出会って結婚した。翔太は祥子さんに連れられてお稽古場に顔を出しているし、興味を持ったら習わせる方針で考えている。

 翔太が自己紹介が上手だったり人見知りをしないのは、お稽古場でたくさんの大人と接する機会があるからかもしれない。

「俊郎さんて、家族の話をするときは本当に嬉しそうだね」
「えぇ。……遥君が助けてくれたおかげで――」

〝毎日幸せです〟と続けられず、言い淀んだ。

「ん?」
「いえ、本当にありがとう」

 遥の父親は既に他界し、母親は遠方の病院で医師として勤務していて家には誰もいない。
 そして……以前の姿の〝普通の人間〟としての遥が帰ってくることを望んでいるおばあちゃんがいる。明るく優しい性格の遥の背景には幸せな家庭環境が整っていると錯覚してしまうのだ。

「俺には遠慮しなくていいよ」
「……やっぱりお見通しですね」



 もうあと15分もすれば、全体会議が始まる8時だ。

 ノックの音がして、ドアが開くと宗像君が現れた。

「お、おおおはようございます。……た、ただいま戻りました。あああの、いいい色々とご迷惑をおかけしました」

 ガチガチに緊張したまま一礼して、人事部に入ってきた。

「宗像君、おはようございます。おかえりなさい」

 遥も立ち上がり――

「宗像さん、あの……」
「いいいい稲月君、せ、先日は」

 双方同時に「ごめんなさい」と頭を下げた瞬間に、()()()という鈍い音。

「うっ……」
「いてぇぇ……」
「大丈夫ですか?!」

 二人とも前頭部を抑えて悶絶している……。
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