第36話 兆し

文字数 2,084文字

「遥君は、広告費を上回るほどいい仕事をしてくれてますから、実質無料みたいなものですよ。では行きましょう」
 今や休憩スペースのアイドルみたいな存在だし、彼は周りを明るくさせる雰囲気を持っている。将来的には錬金術を学び一人前になりたいと言っているのだが、ここに就職してくれると皆も喜ぶだろうに。
 会議室への廊下の横にある機材置き場から宗像さんが当面の間使用するパソコンを引き上げる。
「新しい方は宗像さんと言います。今から人事部で動作確認するので、宗像さんが出社する日が決まったら、前日くらいにデザイン部に持って行ってください」
「はーい」

 人事部の遥の席の隣の作業デスクでパソコンを起動。
「動作確認するついでに、ネットワークから人事部の共有フォルダに行ってみてください。そこから必要書類を印刷してしまいましょう」
 こうした新人が来た時の対応は、会社立ち上げ直後に入社した吉崎さんと一緒にルール化したものだ。
 吉崎さんは元々は営業事務をしていたのだが、人事総務の仕事に興味があると応募してきた。とてもしっかり者の印象で、面接時に私も藤田君も「彼女なら人事・総務の事務が未経験でも大丈夫じゃないか」と採用を決めた人だった。
 徐々に一緒に仕事をする仲間が増え、その都度二人で人事部内での仕事の分担などを相談してきた。そんな彼女も、もうお母さんか……。
 しっかり者だからこそ自分の中でどうにか事態を収束させようとしたのだろうか。
 ……人事部長として私がもっと気を回さなくては。さっきの遥と丸園さんの件もそうだ。問題を野放しにしてはいけない。同じ(わだち)は二度と踏みたくない。
 一緒にモニタを見ながら新規雇用者に関する書類を一通り印刷して、それぞれについて説明を済ませた。
「あれ、この書類って俺の時は無かったやつ?」
「社員の場合は、社会保険の手続きもしますからね。遥君が将来的に就職する時は必ず書くことになりますよ」
「そうだ、俺、社長から内定もらってるんだった!」
 その笑顔をそのまま受け取っていいならすごく喜ばしいし、すぐにでもフライング内定通知を作って出すのに。
「ここまでが、中途採用者の入社時に必要な流れです。新卒の場合は、他にも社外でのビジネス研修というものにも参加してもらうので、その手配などもあるんですよ」
「ふーん、新卒か……そういえば銀河の就活どうなったんだろなぁ」
「無事に内定が決まると良いですね」
 書類をクリアホルダーに挟み、マニュアルどおりにネームタグやタイムカードを一式揃えて、今できる準備はすべて終わった。

 遥は定時で帰宅し、私は改めて小野君の文書を確認した。
 反省文にも謝罪文にも、申し訳ないということ、二度としないということ、今後は仕事に専念するということが綴られていた。吉崎さんにも会社に対してもきちんと誠意を見せているが……。

* * * * *

 翌朝、テレビのニュースやSNSでも大きな話題となっていたのは大きな火球が流れていく動画。
「翔太、すごいね。大きな流れ星だって!」
「ながれぼし?」
「でも……こんな大きいのだと、落ちてきたら怖いね」
「確かに、落ちたら怖いですね」
「ママ、なにがこわいの? だいじょうぶ?」
「今は怖くないから大丈夫よ。さぁご飯にしましょう」
 深夜の関東地方の上空だったらしく、どうせなら残業帰りの通勤路を歩いてる時に流れてくれれば見れたのにと、少しだけ残念な気持ちになった。
 遥からも興奮気味のメッセージが届いた。
『俊郎さん、火球見れた?』
「その時間は寝てましたよ」
『えー、残念!』
「できれば見たかったんですけど、熟睡してました」
『そっかー』

 玄関を開けると外は快晴で真夏の日差しが降り注いでいた。昨日の雷は梅雨の終わりを告げるものだったのだろうか。
「今日は少し遅くなりそうです」
「あまり無理しないでね。行ってらっしゃい」
「パパ、いてらっしゃい!」
 祥子さんと翔太の笑顔に見送られて玄関を出ると、太陽がジリジリと容赦なく照り付けて駅に着く頃には汗だくだった。
 新宿駅に着く頃にはいつもより激しい疲労感に襲われていた。
 でも、今までは「夏は暑くて嫌だ」とかそんな事を言う程度だったが、御苑から吹く風の音に耳を傾けながら、自分を取り囲む光や風、そして夜の闇のことを思うことが増えた気がする。それは間違いなく遥の影響で――
 ちょうど例のビルの前で見覚えのある茶髪がウロウロと歩いている。
「どうしたんですかこの時間に」
「あぁ、俊郎さんおはよう!」
「おはようございます。……ん?」
 よく見ればリュックではなく……赤子を背負っている。
「えっと……遥君、その恰好は」
「はーるかー! お待たせ!」
 マンションの中からベビーカーを押した若い女性がでてきた。そして遥の隣に並ぶ。
「あれ? どちら様? あ、遥の上司さんですか? いつもお世話になってます」
 女性が改めてお辞儀をする。黒いスーツも手伝ってとても凛々しくて上品な印象だ。
「は……遥君、もしかして子持ち既婚者?」
 遥の肩越しから小さな笑い声がして、可愛らしい手が動くのが見えた。随分ご機嫌のようだ。
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