第42話 夏の休日

文字数 2,622文字

 翌朝、七時頃に祥子さんが一旦帰宅して一緒に朝食を摂ると、再びお義母(かあ)さんの身の回りの世話をするために実家に戻っていった。
 晴れた土曜日だし、翔太に希望を聞いてみると「虫が見たい」というので、いろいろ調べたところ、新宿御苑に「観察の森」というのがあった。
 写真を見た翔太は大喜びで、小さなリュックに自分の荷物を詰めて「おでかけ」の支度を始めている。
 正式に苑内に入るのは初めてだから、一番詳しそうな地元民にどんなところか聞いてみると、午後から一緒に行って案内してもらえることになった。
「翔太、今日は会社のお兄ちゃんが一緒に遊んでくれるって」
「ほんと? ふじたくん?」
「ううん、藤田君じゃなくて遥君っていうお兄ちゃんだよ」
「はるかくん!」
 翔太の顔がぱぁっと輝く。私と祥子さんの会話にも出てくるし、その都度「はるかくんってだれ?」と聞かれることもあったから、名前を憶えているのだろう。「なかよくなれるといいなあ」と嬉しそうだった。

 新宿門に向かって歩いていると、門柱の横で手を振る遥が見えた。
「俊郎さーん!」
 例によって帽子と伊達メガネで変装をしているものの、やっぱり目立つ。
「昨日は心配かけてごめんなさい。仕事も途中だったし……」
「いえ、元気になって良かったです」
 翔太が私の足をつつく。
「パパ、はるかくん?」
「あっ、翔太君だね? こんにちは」
 遥が膝をついて、目線を合わせて挨拶をする。
「こんにちは、えっと……はるかくん?」
「そうだよ、よろしくね!」
「よろしくね!」
 翔太の良いところは人見知りをしないところだ。日頃からグズることもないし聞き分けもいい。
「俊郎さん、ラフな格好のほうが若く見えるね!」
「えっ、そうですか?」
 普通のTシャツにカーキのチノパンなのだが。
「どちらかというと髪型ですかね。セットしてませんし」
「あと、眼鏡してないから? ちゃんと見えるの?」
「私は遠視なので、休みの日は裸眼なんですよ」
「へー、そうなんだ! じゃあ意図せず変装してるみたいでいいね」
「遥君はともかく、私は別に変装しなくても良い気はしますけど」
「いくら願想の結実があるからって油断はしないで。あの『声』がなんで聞こえるのかだって分からないのに」
 招き猫の謎を追うのは断念しても、まだあの「声」の問題は解決していない。
 シオリさんからの連絡もないし……彼女は無事でいるのだろうか。

 新宿御苑のゲートをくぐると見事な庭園が広がっていた。
 蝉の声が響く中、遥に案内された場所は、小さな森になっていて子供にはもってこいの場所だった。
「まだ五分も歩いていないのに、かなり鬱蒼としてますね」
「ここ、やま? もり?」
「森みたいですごいでしょ! 翔太君、怖くない?」
「だいじょうぶ!」
 草木に囲まれた薄暗い休憩所で遥が持参してくれた虫よけスプレーを噴く。
「昼でもこんなに暗いんですね」
「それに結構涼しいでしょ! ちょっとした避暑地気分になれるし、生き物もたくさんいるから小さい子に特にいい場所だよ」
 住宅地に住んでいるのもあって、こんなに生い茂る木々の下は怖がるかと思っていたが、自ら遥の手を引いて物怖じせずに茂みを歩いている。

 小さな森の中で翔太は大はしゃぎだった。
 私は一緒に池の周りをぐるりと歩いてから先ほどの休憩所へ戻ると、翔太と同じ年頃の子を連れた家族連れが何組か到着したところだった。
 遥が想叶者となったのはどのくらいの年頃だったのだろう。二人が楽しそうに遊んでる姿を見ながら、昨日の八神さんの話を思い出していた。遥は幼い日に何を望んでいたのだろう。
 願いが叶うという幻星の昴を手に入れたら、人はどれだけ自分の欲望を満たそうとするだろうか。私なら……どうなるだろうか。家族を幸せにする力だろうか、それとも――
「パパ――! みてみて!」
 無邪気な顔で走ってきた翔太が見せてくれたのは、タマムシの骸だった。
「たまむしだって」
 メタリックグリーンに虹色の縞模様の翅は、鮮やかでどこかメカニカルな雰囲気を持っている。
「へぇ……パパも本物は初めて見たよ、ありがとう」
 それを聞いて遥を見上げて「パパよろこんでる」とご満悦だ。
「生きてる子を見せてあげられたらもっと良かったんだけど、見つけられる自信がないや」
「すごいですね。新宿にこんなのがいるんですか」
「うん。この森ができてからみたいだよ、生き物が増えたのって」
 二人が戻ってきたついでに水分補給とおやつの時間。
「俊郎さん、昨日八神さんと何の話をしたの?」
「えっ?」
「俺抜きで話をしたんでしょ?」
 ここでごまかそうと思っても、どうせすぐバレる。
「えぇ。遥君の子供の頃の話や、幻想波と詠出の力についても少々。……遥君の身を案じていましたよ」
 隣に座っていた遥が立ち上がり大きく伸びをする。
「あのオッサン、いつまでも子ども扱いするんだもんなぁ」
「それだけ心配なんですよ。病院にも駆けつけてくれたくらいです」
 八神さんの遥への想いは、父親の愛情のようなものだと私は考えていた。
「それに八神さんの話を聞いたら、遥君には無理はさせられないと思いました」
「そっかぁ……」
 今日、遥を店に呼んで改めて縁切りの招き猫を追うのを止めるよう話すと言っていたし、私がここで話すより八神さんから直接のほうが良いだろう。

 ほかにもカミキリムシやカナブンやハナムグリといった甲虫を何匹かとナナフシという細長い虫を見つけては、翔太はその都度走って報告にくる。ナナフシは私も見たことがなかったので藪まで連れて行ってもらったのだが、自分の胸の丈ほどある藪の中にぐいぐい入っていく翔太に少し逞しさを感じてしまった。
 翔太がずっと手に握っていたタマムシの骸は、帰り際に一番深い茂みまで隠しに行った。拾う時に遥と約束したそうだが、土を掘って埋めているのだろうか……?
「翔太ー、早く戻っておいで」
「翔太君、そろそろ帰るよ!」
「はぁい! キラキラしてた!」
「そうだね、綺麗だったね」
 ウッドデッキを歩いて珍しい松の木を見て新宿門まで戻る途中、遥と翔太は芝生へと入って、追いかけっこをしていた。暑いのに四歳児たちは元気いっぱいだ……。

 遥はその足で八神さんのところに行くと言って途中で別れ、私たちは新宿駅から電車に乗った。
 翔太の服や靴は泥だらけになっていて、その分だけ冒険をしたのだろう。
 電車の中で翔太がニコニコしながら見せてくれたのは……小さな幻想結晶だった。
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