第31話 消えない想い

文字数 3,085文字

「ちょっと待ってください、虫じゃないんですか? じゃあ一体……?」
 地中に住んでいるアリや、夜行性の昆虫かと思っていたのに。
「ははっ、ははははは」
 遥が高らかに笑う。笑った勢いで起き上がり、枕にしていたペットボトルを手に取って軽快に飲み干す。
「新宿御苑の特徴は外周を囲われていて夜間は人の出入りがないこと。それと、江戸時代からずっとそのままの場所もあるんだ。特にこの目の前の池とかね。周りは急激に都会化しちゃって、ここじゃないと生きられないような者たちが隠れ棲んでいるんだよ」
 正体は教えてくれそうにもない。裏を返せば、それはつまり……。
「そうですか。……でも、そんな方々の想いの力を借りて、こうして生きているから、感謝しかありませんよ」
 私の言葉を聞くと、満足げな顔を見せてもう一度横になった。
 空になったペットボトルを捨てに行きながら、新しい水をもう一本買ってまた首の後ろに入れてやった。

 幻想世界に行けるのは、「願い」を届けるための限られた日のみで、それ以外で訪れることは先日の私のような「特別な事情」がない限りは叶わないらしい。 
 七夕の夜は、幻想錬金術師の仕事の中でも特に負担が激しいという。それでも幻想世界に行けることのほうが嬉しいという。
 打ち上げられた願いは、幻想錬金術師の力でひとつにまとまった後、弾けて小さな結晶になってから流星のように散って行き、それはしばらく幻想世界を巡った後、この現実世界に少しずつ舞い降りて、人々の願いを支える流れ星になって現れるのだそうだ。
「願い事は……三回も言わなくていい。空を見上げて想うだけで良いんだよ」
 穏やかな声だった。
「三回は無理だなと思うと、唱えるのすら諦めてしまいますね」
「そう、誰が決めたか分からないルールに振り回されて、諦めちゃうなんておかしいよね」
 確かに、そう言われたらそうだ。
「もし叶うのなら流れ星を探してみようって思う事で、自分の願い事を再認識するでしょ? 諦めかけていても……忘れかけていても、空を見上げる度に思い出せば、それでまた一歩踏み出せるかもしれないじゃん」
 なんてことをサラリと言うんだろう。
「……そうですね」
「流れ星だけじゃなく、満月の夜も、真っ暗闇の夜でも、想い出せばいいんだ。支えてくれる者はどこにでもいる」
 ……自分の願い事が巡り巡って、誰かの願いを叶える希望にもなるなんて。
「想いを循環させるって、とても夢があって素敵な仕事ですね。……今日見たことを、いつか絵を添えて翔太に聞かせてやってもいいかな」
 遥はこちらを向いて優しい顔で頷いた。
「俊郎さん、絵心も想像力もあるんだし良いと思うよ。物語にして翔太君に見せてあげてよ」
 実を言うと子供の頃、七夕の短冊に「絵本作家になりたい」と書いたことがある。遥は、あの似顔絵を詠んだ時になんとなく分かってしまったのだろう。例えあの女性の似顔絵であっても、絵を描くことが楽しかったのだ。
 幻想錬金術師は、多くの人の想いや夢や願いを循環させるのに、幻想錬金術師の想いは誰が循環させるのだろうか。私にそれができるのだったら、色々落ち着いたらまた絵を描いてみようか。
 遥が言っていた通り、「願い」は決して消えることがない想いなのだと、この時ようやく理解した。

* * * * *

 年内の一大イベントの七夕が終わり、また次のイベントまでの間は通常業務のみとなる。
 昨晩は結局午前二時頃まで御苑で遥と話をしていた。……うちの四歳児もあんな風に優しい子に育つといいな。
 昨晩は家に帰っていないので、祥子さんのお弁当は無し。早速、やや二日酔いの藤田君を誘ってランチに出かけた。彼は「昨日のことは全く覚えていない、気づいたら家の玄関で寝ていた」と、不自然なほどの大声で話す。
 私のことを嘘が下手だという割には、藤田君もなかなかどうして嘘が下手くそだった。
 会社に戻って社長室に入っていく彼に一言投げてみた。
「予算の折り合いが付いたら、ここの間の壁にどんでん返しつけますか?」
 藤田君はニヤリと笑ってドアを締めた。本当に酒に弱いんだから、無茶しないで欲しい。

 夕方、差し入れを携えた遥が出勤してきた。彼のデスクの上には私からの差し入れが置いてある。
「これは?」
 リュックを下ろし、伊達メガネとコンタクトレンズを外すと、それを手に取りまじまじと見ている。
「汗拭きシートです。冷感タイプだから、少しは体も冷えていいのではと思って。使ってください」
「ありがとう! 昨日切らしちゃったまま忘れてたから、ちょうど良かった! 自転車だと乗ってる時はいいけど降りたらホント暑いね。はい、アイス」
 詠んだ時などにと思ったのだが……早速開封して顔や首筋を拭いている。そうだね、夏だもの暑いですよね……。
「あ、遥君は何か香水とか付けてるんですか」
「え? 付けてないけど、臭い?」
 慌ててTシャツの肩口や、引っ張り上げた裾の匂いを嗅いでいる。
「いえ、今じゃなくて、昨日倒れかけた時に良い匂いがしたので」
「どんな?」
 とりあえず、ヘソをしまってほしい。こういう時は本当に四歳児だ。
「どんな……と言われると具体的に答えられないですが、少し爽やかな……、でも甘いような匂いでしたね」
「なんだろ……? よくわからないなぁ」
 本当に一瞬だったのだが……何だったのだろう。
「花がたくさん咲いていましたし、幻想世界の影響でしょうか。今まではそんな匂いしなかったので」
「あー、そう言うのもあるかもね。今まで一人だったからそういう事もわかんないや」
 笑顔で寂しいことを言うな。

 ……もしも私が遥と出会うことなく、祥子さんや翔太が幻想錬金術師との不思議な体験を私に話した時、私は二人の話を否定してしまうだろうか? 胸を張って「信じる」と言えるだろうか。
 ……いや、私にはもう身近で当たり前の出来事になってしまっている。愚問だった。
「そういえば、昨晩、守衛さんに私を『助手』と紹介していましたが」
「あ、あれは言葉のあやで……。関係者じゃないと入れないから。ごめんなさい」
「いえ、それは別に良いのです。当事者として、あの『声』が聞こえる者として、少しでも役に立ちたいと思っているので、助手は引き受けますよ」
 俯いて少し考えた後、私のデスクの前までやってきて、目を見ながら予想通りの反応。
「……俺にはその『声』が聞こえない。だから申し出はありがたいんだけど危険な目に——」
「そこは遥君の幻想錬金術で回避できると思ってますよ」
 だから頼りにしているし、頼って欲しいのだ。
「じゃあ、俺が何としても対抗できる手段を探し出すから」
 そう言って金色の瞳を輝かせた。

* * * * * * * * * *

 あたしはすこぶる機嫌が悪い。
 思わぬ協力者に喜んだ矢先、駒からの幻想波が途絶えた。
 もう少しというところだったのに。
 不思議なのは、新宿駅で反応する幻想波が、同時に二つあった。
 一体誰……?
 反応するほどの幻想波を纏っていた虜がまだ生きているっていうの?
 それならば、何か別の手段を講じれば、まだあたしの物にはできる機会があるということ。
 そう、まだ生きているなら、却って好都合。
 協力者の数は多いに越したことはない。

 人間の執念は、とてもとても美味しい。
「ね、あんたもそう思うでしょう?」
 まだ怯えて部屋の隅で震えている。
「その身なりは就活生かしら? 大変ね。暑いのに黒い服だなんて」
 ますます震えている。怯えることなんてないじゃない。
 力は使ってこそのものなのに。
「協力してくれるって言ったじゃない。ね?」
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