第76話 EX編6 憐みの巨熊

文字数 2,855文字

 弁護士として大先輩の山野先生から彼を紹介されたのは、もう10年ほど前だろうか。


 事務所近くの魚が美味しい馴染みの店で飲んでる時だった。

 その日は、長引いていた人間の男性と猫の想叶者(ねこまた)の女性との離婚訴訟で、俺が代理人を務めていた人間の夫側に親権が認められる判決が言い渡された。

 子の親権はほとんどの場合、妻に()があるのだが……経済力のない想叶者(ねこまた)の女性が、人間の社会で猫の血を引く子供たちを養い育てるのは無理があるのだと幻想裁判所も判断したのだろう。

 判決は勝ち取った形だが、正直複雑な気持ちではある。

 昔ほど大らかではなくなったこの時代では、俺の妹も息の詰まる生活を余儀なくされているから——。



「やぁ、(たちばな)君!」

 聞き覚えのある声に振り返れば山野先生だ。

「どうしたんですか、こんな時間に」

「いや、一緒に飲まないかと思って事務所に電話したんだけどね。ここにいるかと思って来ちゃった」

 その背後には見上げるほどの大男。

「この人、山野先生の知り合い?」

 見た目通りの太い声だ。

「うんうん。橘君は私が若者の頃からよく知ってるって言えば解るかな?」

 俺の見た目は人間の三十代前半。一方の山野先生は六十代後半と言ったところ。山野先生の言う通り、古くからの知り合いだ。

 店の大将が話題を察して奥の座敷へと案内してくれた。


「八神君、彼は橘君。私と同じく弁護士だよ」
「え、マジかよ、こんなに若いのに?」
「橘君は訳アリだからね」
「ふうん」

 すでにどこかで一杯ひっかけてきた山野先生がスレスレの誤魔化し方をする。

「……で、山野先生、そちらの方は?」
「彼は八神君。私が前に就籍(しゅうせき)手続きをした熊さんだよ」

 あ、熊さん。なるほど。

「なんかこの(あん)ちゃん驚かねえな」

 俺が人間だったら「何を馬鹿なことを言ってるんだ」と笑ってしまったのかもしれない。

「だって、八神君と同じ側にいるし、そういう子たちたくさん知ってるもの。そりゃ驚かないさ」
「……つまり、想叶者?」
「そ。彼は猫ちゃん。化け猫だよ」

 俺は大した力を持たない猫の想叶者(ばけねこ)ではあるが、この八神という大男からは底知れない何かは感じることができる。ただ、それが一体なんなのかは、この時はまだ知る由もなかった。



 口は悪い面はあるが、八神は本当は人間が大好きで仕方がないといった風で、人間である山野先生にとてもよく懐いている。珍しいタイプもいるもんだな。

「それにしても橘さんよぉ、不愛想だねえ」

 山野先生が早々に酔いつぶれて座敷で寝てしまい、帰るタイミングを逃してしまったため、八神とサシ飲みということになってしまった。

「え。楽しく飲んでるつもりだけど」
「じゃあ笑って見せろよぉ」

 えぇ……楽しく飲んでるのはホントなんだけど。

「ほら、早く笑え」
「……フフッ」
「…………」
「……………?」
「……まぁいいや」
「なんだよ」
「なんでもねぇよ」
「言えよ」
「別に、何だっていいだろ」
「気になるだろう」

 空いたグラスをひったくり、水割りを作り始めると急に姿勢をただしてこう言った。
「いや、笑ったらちゃんと血の通った生き物だなって思ってよ」

 あぁ……そういうこと。

「お前さん、イケメンの部類ではあるが本当に怖い顔だもんな。それじゃ人間寄ってこないだろ」
「ほっとけよ」

 裁判の時に、相手方には有利な顔面(がんめん)なんだよ。

「ま、長生きしてるとよ、色々あるもンだよな。人間はみんな悪いやつじゃないが、猫が化け猫になるほどのことがあったってことだもんな」
「……そうだな」

 水割りを手渡すと、受け取りながらヤガミが続けた。

「俺ぁ、子熊の頃に人間に育てられてな。たいそう大事にされたんだよ。暖かい家の中で人間同様に大事に大事に育てられた。まぁ、最後は人間に送られちまったわけだが」
「……八神さん、どこの出身?」
「蝦夷だよ」

 なるほど……。

「命ってもんは本来、人間も獣も一緒なんだがな。その存在に感謝をしたり想いを馳せるのが人間の素晴らしいところでもあるが、業でもあるよな」
「……だな」

 カランと音を立てて氷が転がる。

「気づけば俺は一人ぼっちになっちまった」

 ぽつりと言ったその言葉はとても寂しげで、この男がどれほど人に愛され、人を愛しているのかを悟った。



 数年後……、とある新聞で、あの男性のことが報じられた。

 彼は……子供たちを育てることができなかったのだ。子供たちが可愛くて、自分が育てたいと、そのために親権を求めていたんじゃなかったのか?

 生き方の合わない猫の想叶者との生活から解放され、判決書を受け取った時の彼の清々しい顔を思い出すと、やるせない気持ちになった。

 あの時、親権が妻側になっていたら……。



『なぁ、橘。相談があるんだが今からこっちこれるか?』

 その声はやけに低くて深刻さを物語る。 

「——いいよ。今から行く」

 終業間近、一日中ずっと報道機関からの電話対応に追われた事務員が、八神からの電話だけを繋いでくれた。

 八神は小さな会社の社長で、呼び出されたのは雑居ビルに構えた彼のオフィスだった。昔の理科の実験室のような薬品棚が並べられ、レトロな気配が漂うがすべてきちんと整頓されて管理が行き届いている。

「相変わらず寒いな」
「すまんすまん、猫ちゃんには辛いよな」

 冷風が噴き出すエアコンを止め、俺に座るように促すと目の前は既に酒やつまみが並べられている。

「相談じゃなかったのか」
「酒が入らないと言えない相談だってあるだろ」

 正直、飲む気分じゃないんだが……



「君たち良い友達になったでしょ、って言うんだよ。あのジジイ!」

 そう言う八神は顔をくしゃくしゃにしている。……見え見えの作り笑いだ。

 実はあの出会いが()()と呼ばれる山野先生の計画的犯行だったと、八神から聞かされた。

「まあ、実際良い友達だと、俺は思ってるけど?」
「くっそ、今日はおごってやるからとことん付き合え!」
「……いいけど、山野先生の真似上手いな。もっかいやってよ」
「あ? 二度は無理だ無理!」

 八神の馴染みの店に場所を変更するため、飲んだ空き缶を片付けているとゴミ箱には引きちぎられた今日の新聞が放り込まれていた。


 俺たちのような獣でもなく人間でもない者は、どうしたって人の世界に入り込んで生きる道しか残されていない。過去に八神と何度もその話をした。

 今の世界は全てが人の持ち物で、俺たちは窮屈な思いをしながら暮らしている。それでも間に立つ者や理解してくれる存在がいるだけで救われる奴はたくさんいるはずだ……と。

「なあ、橘」
「ん?」
「お前が弁護士でよかったって思うヤツぁたくさんいるんじゃないか?」
「……そうか?」
「お前にゃ適職だよ。喜ぶ奴はこの先もたくさんいると思うぜ」
「そうだと良いな……」
「お前、俺を信じてないのか?」
「信者ではないが、友達としては信頼しているさ」

 ガハハハと豪快に笑い、その声に人間たちが振り返る。そして八神は彼らに愛想を振りまく。

 正直、今日ほどこの仕事を辞めたいと思った日は無かった。……でもこいつのお陰で……また頑張れそうな気がした。
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