第71話 EX編1 言葉の壁
文字数 2,895文字
給茶機に紙カップを設置していると、不意に聞こえた話し声。
「稲月君、一緒にスーツ買いに行こうよ~」
相変わらず鎌田君が遥を営業に連れ出そうと誘っているようだ。
「鎌田さんまたそれー? 営業行ってもこの言葉遣いじゃ役に立たないって」
……今更だが、遥はほとんど敬語を使わない。何かお願い事がある時に少々丁寧語になる程度だ。
ピッピッピッと電子音がして、給茶機が抽出完了を知らせてきた。
言葉遣いはさておき、鎌田君はどうして遥の上司である私に一言相談をしないのだろうか。遥を他部署に貸し出すのは手が空いた時で、社内での仕事じゃないと私が困る。
「大丈夫大丈夫、今日とか仕事終わったら連絡してよ~」
「スーツ、買わなきゃダメ?」
「わ、あざとい! それを営業先でやって!」
首を傾げるあのポーズか……。そして一体どこに遥を連れて行くというのだ。
「もー、そもそも鎌田さんは今夜は部署長ミーティングでしょ!」
いいぞ、さすが人事部の一員。スケジュールをきちんと把握している。
「俊郎、なにやってんだ?」
デザイン部の書架の陰から遥たちのやり取りを覗き見中という、不審者丸出しの私の背後に藤田君がいた。
「静かにしてください。今偵察中です」
「別に良いじゃん、営業の研修も悪くないだろ」
……スーツを買いに行くのは別に良いのだが、今夜は満月で遥だって本業があるし、屋上に来ないかと誘われている。
「二人で出かける約束でもしてるのか?」
「えぇ、まあ」
なんで藤田君がそんなに泣きそうな顔になるのだ。
「……俺は俊郎をランチやディナーに誘いたいのを我慢しているのに」
「藤田君とは先日ランチ行ったじゃないですか」
私だってたまには藤田君とゆっくり食事をしたい。
「俊郎はどうしてそんなに距離をおきたがるかなあ」
「いつも隣にいますから、そんな事言わないでください」
それに別に距離をおいているわけではない。
「部屋の問題じゃないだろ」
やはり色々落ち着いたらあの壁にどんでん返しを付けるべきだろうか。
「もう出会ってかれこれ十年経つのに敬語もやめてくれないし。……遥君と言葉遣いを逆にすればちょうど良いくらいだよな」
「それは難しい相談ですね」
「……今度の全体会議の議題に上げようかな。俊郎が敬語を止めて、遥君は敬語謙譲語丁寧語を使い分けるよう求めるって」
それはさすがに悪ふざけが過ぎる。
「そういえば、俊郎さんって翔太君にだけ普通の言葉遣いだよね」
「ひっ!」
気づけばすぐ横に遥がいた。
「俊郎は、前は乳児の翔太君にも敬語使ってたんだぞ」
「えっマジで!?」
……。
「結婚して六年経つのに祥子さんにもまだ敬語使ってんだろ?」
「へー!」
「敬語じゃありません。丁寧語ですよ」
「俊郎さんすごい、バイリンガルだ!」
よりによって給茶機の前という人がそれなりに来るところでこんな話を……
「家のしつけが厳しかったとか?」
……ある意味それが正解でもあるが……。それにはあのトラウマを説明する必要があるから遥以外には話す気はない。
「とにかく、翔太以外にはタメ語などでは話せませんから!」
「えー……」
残念そうな藤田君を置いて人事部に戻ってきた。
「ふぅ……」
スマホを取り出すと、そこには翔太の写真。
「あぁ……可愛い」
藤田君の指摘通り、私は翔太が生まれて間もない頃は丁寧語で話しかけていた。もちろん祥子さんにも笑われたのだが、「俊郎さんらしい」と許容はしてくれていた。
ところが、それを一変させる事件が起きたのだ。
それは、公園デビューして間もない頃だった。
翔太をベビーカーに乗せ、自宅のマンションから出てきたところで翔太が泣きだしてしまった。
祥子さんは家で休息の日で、今日は私がしっかり面倒をみるという約束をして出てきたばかり。
「翔太君、何が不満ですか」
「翔太君、どうしました?」
「翔太君、泣き止んでください」
普段は大人しい翔太が珍しく大泣きをしてしまって困り果てていた。
あぁ……
「翔太君、大丈夫ですか? 一度帰りますか」
一旦家に引き返そうと思った時だった。
「すみません、警察ですが。ちょっといいですか?」
困っている私を見かねて声をかけてくれたのだろう。
中年の厳めしい顔のお巡りさんだが、左手の薬指には指輪が。つまり既婚者で育児経験者かもしれない……!
「あのっ助けてください。泣き止まなくて困っているんです」
「あなたのお子さんですか?」
「はい?」
「お子さん、どこから連れ出したんですか。署までご同行願えますか」
「翔太は私の子ですが?」
そんなやり取りの中でも全く泣き止む様子のない翔太に声をかけた。
「翔太君、すみません大きな声を出してしまって」
「自分の家の子にそんな風に話しかける親がどこにいるんですか。アンタ、そのお子さんどこから連れてきたの?」
えぇ?!
「アァーーーン」
翔太がますます大きな声で泣く。おしめは代えてきたばかりだし、一体なにが……
「あやし方もぎこちないな。大人しく署まで」
その時だった。
「翔太?! 俊郎さん大丈夫?」
大きな翔太の泣き声で、結局祥子さんが降りて来てしまった。
「祥子さん……すみません」
「良いのよ。それよりお巡りさんがどうして?」
祥子さんが抱っこしたとたん、翔太が大人しく泣き止んだ。
一体何が違うというのだろう。
「あっ……。すみません、お父さんで間違いなかったですか」
「ぷっ……」
祥子さんが小さく噴き出す。
「えぇ……翔太は私たちの息子ですよ」
その日から、翔太にはまず祥子さんが話しかける時の言葉遣いで話すことを心掛けるようになった。
〝どうしたの?〟
〝よしよし〟
〝いい子いい子〟
それから、祥子さんと同じように抱っこすることも心掛けた。日頃一緒にいる時間が長い祥子さんの翔太への接し方を見習った。
……以後、翔太にだけは(ある程度成長するまでは)丁寧語を極力使わないという誓いを立てたのだ。父親らしくなるために。
「俊郎さん、もしかして翔太君に敬語使って誘拐犯に間違われたとか?」
「ひっ!」
さっきから遥が不意を突いてくる。
いつの間に人事部に戻ってきたのだ。
「君は人の心が」
「詠めないってばー! ただの推理みたいなもんだよ」
「……ほぼ正解です。それで私は翔太にだけは丁寧語は使わないようにしました」
「使えないわけじゃないんだったら、社長や俺にもタメ語で良いのに」
……簡単に言ってくれるが、それはとても難しい。
「私は翔太が乳幼児だから敬語を使わなくなりました。なので、私の感覚では敬語や謙譲語や丁寧語以外というのは、幼児言葉のようなものなのです」
「!」
今すっごい面白いものを見つけたという顔をしたぞ。
「じゃあ、社長にタメ語で話すということは」
「えぇ。私は藤田君に幼児言葉で話しかける感覚になってしまうんです」
「……俊郎さんが、……っ……社長をあや…………」
隣に聞こえたらまずいと思ったのか、声を殺してお腹を抱えて震えて笑っている。
こんな私だが、いつかは藤田君が距離を感じないコミュニケーションが取れる日が来るといいなと思っている。……また匿名の相談窓口にメールを送られないよう祈りながら。
「稲月君、一緒にスーツ買いに行こうよ~」
相変わらず鎌田君が遥を営業に連れ出そうと誘っているようだ。
「鎌田さんまたそれー? 営業行ってもこの言葉遣いじゃ役に立たないって」
……今更だが、遥はほとんど敬語を使わない。何かお願い事がある時に少々丁寧語になる程度だ。
ピッピッピッと電子音がして、給茶機が抽出完了を知らせてきた。
言葉遣いはさておき、鎌田君はどうして遥の上司である私に一言相談をしないのだろうか。遥を他部署に貸し出すのは手が空いた時で、社内での仕事じゃないと私が困る。
「大丈夫大丈夫、今日とか仕事終わったら連絡してよ~」
「スーツ、買わなきゃダメ?」
「わ、あざとい! それを営業先でやって!」
首を傾げるあのポーズか……。そして一体どこに遥を連れて行くというのだ。
「もー、そもそも鎌田さんは今夜は部署長ミーティングでしょ!」
いいぞ、さすが人事部の一員。スケジュールをきちんと把握している。
「俊郎、なにやってんだ?」
デザイン部の書架の陰から遥たちのやり取りを覗き見中という、不審者丸出しの私の背後に藤田君がいた。
「静かにしてください。今偵察中です」
「別に良いじゃん、営業の研修も悪くないだろ」
……スーツを買いに行くのは別に良いのだが、今夜は満月で遥だって本業があるし、屋上に来ないかと誘われている。
「二人で出かける約束でもしてるのか?」
「えぇ、まあ」
なんで藤田君がそんなに泣きそうな顔になるのだ。
「……俺は俊郎をランチやディナーに誘いたいのを我慢しているのに」
「藤田君とは先日ランチ行ったじゃないですか」
私だってたまには藤田君とゆっくり食事をしたい。
「俊郎はどうしてそんなに距離をおきたがるかなあ」
「いつも隣にいますから、そんな事言わないでください」
それに別に距離をおいているわけではない。
「部屋の問題じゃないだろ」
やはり色々落ち着いたらあの壁にどんでん返しを付けるべきだろうか。
「もう出会ってかれこれ十年経つのに敬語もやめてくれないし。……遥君と言葉遣いを逆にすればちょうど良いくらいだよな」
「それは難しい相談ですね」
「……今度の全体会議の議題に上げようかな。俊郎が敬語を止めて、遥君は敬語謙譲語丁寧語を使い分けるよう求めるって」
それはさすがに悪ふざけが過ぎる。
「そういえば、俊郎さんって翔太君にだけ普通の言葉遣いだよね」
「ひっ!」
気づけばすぐ横に遥がいた。
「俊郎は、前は乳児の翔太君にも敬語使ってたんだぞ」
「えっマジで!?」
……。
「結婚して六年経つのに祥子さんにもまだ敬語使ってんだろ?」
「へー!」
「敬語じゃありません。丁寧語ですよ」
「俊郎さんすごい、バイリンガルだ!」
よりによって給茶機の前という人がそれなりに来るところでこんな話を……
「家のしつけが厳しかったとか?」
……ある意味それが正解でもあるが……。それにはあのトラウマを説明する必要があるから遥以外には話す気はない。
「とにかく、翔太以外にはタメ語などでは話せませんから!」
「えー……」
残念そうな藤田君を置いて人事部に戻ってきた。
「ふぅ……」
スマホを取り出すと、そこには翔太の写真。
「あぁ……可愛い」
藤田君の指摘通り、私は翔太が生まれて間もない頃は丁寧語で話しかけていた。もちろん祥子さんにも笑われたのだが、「俊郎さんらしい」と許容はしてくれていた。
ところが、それを一変させる事件が起きたのだ。
それは、公園デビューして間もない頃だった。
翔太をベビーカーに乗せ、自宅のマンションから出てきたところで翔太が泣きだしてしまった。
祥子さんは家で休息の日で、今日は私がしっかり面倒をみるという約束をして出てきたばかり。
「翔太君、何が不満ですか」
「翔太君、どうしました?」
「翔太君、泣き止んでください」
普段は大人しい翔太が珍しく大泣きをしてしまって困り果てていた。
あぁ……
「翔太君、大丈夫ですか? 一度帰りますか」
一旦家に引き返そうと思った時だった。
「すみません、警察ですが。ちょっといいですか?」
困っている私を見かねて声をかけてくれたのだろう。
中年の厳めしい顔のお巡りさんだが、左手の薬指には指輪が。つまり既婚者で育児経験者かもしれない……!
「あのっ助けてください。泣き止まなくて困っているんです」
「あなたのお子さんですか?」
「はい?」
「お子さん、どこから連れ出したんですか。署までご同行願えますか」
「翔太は私の子ですが?」
そんなやり取りの中でも全く泣き止む様子のない翔太に声をかけた。
「翔太君、すみません大きな声を出してしまって」
「自分の家の子にそんな風に話しかける親がどこにいるんですか。アンタ、そのお子さんどこから連れてきたの?」
えぇ?!
「アァーーーン」
翔太がますます大きな声で泣く。おしめは代えてきたばかりだし、一体なにが……
「あやし方もぎこちないな。大人しく署まで」
その時だった。
「翔太?! 俊郎さん大丈夫?」
大きな翔太の泣き声で、結局祥子さんが降りて来てしまった。
「祥子さん……すみません」
「良いのよ。それよりお巡りさんがどうして?」
祥子さんが抱っこしたとたん、翔太が大人しく泣き止んだ。
一体何が違うというのだろう。
「あっ……。すみません、お父さんで間違いなかったですか」
「ぷっ……」
祥子さんが小さく噴き出す。
「えぇ……翔太は私たちの息子ですよ」
その日から、翔太にはまず祥子さんが話しかける時の言葉遣いで話すことを心掛けるようになった。
〝どうしたの?〟
〝よしよし〟
〝いい子いい子〟
それから、祥子さんと同じように抱っこすることも心掛けた。日頃一緒にいる時間が長い祥子さんの翔太への接し方を見習った。
……以後、翔太にだけは(ある程度成長するまでは)丁寧語を極力使わないという誓いを立てたのだ。父親らしくなるために。
「俊郎さん、もしかして翔太君に敬語使って誘拐犯に間違われたとか?」
「ひっ!」
さっきから遥が不意を突いてくる。
いつの間に人事部に戻ってきたのだ。
「君は人の心が」
「詠めないってばー! ただの推理みたいなもんだよ」
「……ほぼ正解です。それで私は翔太にだけは丁寧語は使わないようにしました」
「使えないわけじゃないんだったら、社長や俺にもタメ語で良いのに」
……簡単に言ってくれるが、それはとても難しい。
「私は翔太が乳幼児だから敬語を使わなくなりました。なので、私の感覚では敬語や謙譲語や丁寧語以外というのは、幼児言葉のようなものなのです」
「!」
今すっごい面白いものを見つけたという顔をしたぞ。
「じゃあ、社長にタメ語で話すということは」
「えぇ。私は藤田君に幼児言葉で話しかける感覚になってしまうんです」
「……俊郎さんが、……っ……社長をあや…………」
隣に聞こえたらまずいと思ったのか、声を殺してお腹を抱えて震えて笑っている。
こんな私だが、いつかは藤田君が距離を感じないコミュニケーションが取れる日が来るといいなと思っている。……また匿名の相談窓口にメールを送られないよう祈りながら。