第14話 平穏な日常

文字数 3,135文字

『……まだ、いきて……の……』
 ——え?
 ……ここは……どこだろう。
 真っ暗闇で、自分の足元すら見えない……。
『……まだ、いきて……の……』
 何を言って……。それにもう——
『そろそろ……』
 聞きたくない。
「そろそろ起きてください」
 起き……?
「俊郎さーん、そろそろ起きてくださーい」
 あ……。
「やっと起きた。朝ごはんできてますよ」
 にこやかな祥子さんの顔で現実に引き戻される。
「何の夢を見てたんですか? うなされてましたよ」
 あれ……なんだっけ。何か嫌な夢を見ていたはずだけど。
「起きたら忘れちゃいましたね」
 寝起きの私に翔太がゆっくり歩いてきてコップを差し出す。
「パパ、おみずもってきたよぉ」
「あぁ。翔太、どうもありがとう」
 見た目も性格も祥子さんによく似て優しい子だ。受け取って頭を撫でてやると笑顔ではにかむ。本当に可愛い……。
「パパ、よぉくねてたよ」
 どうやら風呂に入った後、ソファーで寝てしまっていたらしい。たまには翔太に絵本を読み聞かせして、祥子さんと一緒に映画を見ようと思っていたのに。
「祥子さん、昨日はごめんね。映画はまた今度でいいですか?」
「ううん、映画はいつでもいいの。たまにはゆっくり寝ないとね」
 朝食は五穀米と焼き魚と玉子豆腐とナスの味噌汁。いつも小さな翔太の面倒を見ながらよくやってくれている。ありがとう。
「いただきます」
「今日は帰りは遅い?」
「それなりには遅いですね。その代わり今週の土曜日は休めそうです」
「そう! じゃあ楽しみにしてるね」
 もうこの笑顔のために生きているといっても良い。先に食事を終えている翔太は大人しく隣に座って一緒にデザートのリンゴを(かじ)る。
 今日こういう日常があるのも、遥のおかげだ。生きててよかった。

 月曜日の朝、鞄を抱えて思い詰めた顔の男性が目に留まる。私と同世代だろうか……。乗車の列に並ぶわけでもなく、ホームのかなり線路寄りの場所にただ佇んでんでいる。
 その左手の薬指には指輪が光っていた。
「……あの、大丈夫ですか? その……」
 何か嫌な予感がして声をかけると、彼は鞄に顔を押し当てるように俯いた。
「なんで……」
「えーと……、その……ちょっと不自然だなって思ってしまって……。すみません」
「……いえ、気にかけてくれて……ありがとうございました」
 一礼をして乗車列へと歩いて行った。……大丈夫だろうか。
 それから池袋を経由して新宿へと電車を乗り継ぎ、また会社での一週間が始まった。

 パソコンを起動すると、連絡事項やリマインドのメールのほか、先日の小野君と吉崎さんの事件をうけて設置したばかりの匿名の相談窓口に着信があった。
『件名:部下との距離を感じています』
 少しザワっとする心で続きに目を通す。
『部下はとても良い人なのですが、少し距離を感じてしまい戸惑っています。もう少し心を開いてもらいたいです』
 トラブル以前の相談だ。とりあえずは大きな問題じゃない案件でホッとした。
 まずは報告と相談のために社長室へ赴く。
「お、来た来た。これの件でしょ」
 匿名相談窓口は藤田君と私が主導、あとは状況に応じてデザイン部の田畑さんと営業部の鎌田君も招集し、さらに必要であれば顧問弁護士の山野先生にも相談をすることが一昨日の緊急会議で決まったばかりだった。
「鎌田君は午前中は営業で不在ですし、とりあえず今日の午後にでも会議ですかね」
「いや、緊急性はないけど、トラブルらしいトラブルじゃない。鎌田君には議事録を送ることにして、田畑さんと三人で考えてみよう」
 田畑さんのスケジュールは大丈夫ということだったので、デザイン部のミーティングの後、十時から会議室に入った。
「トラブルは起きてないけど、少しギスギスしている感じがするというような?」
 私も藤田君も、田畑さんと同じ意見だ。
「こういうの割とよく聞く話だよね。朝のワイドショーとかでもたまに取り上げられてるかなぁ」
「確かによくある話ですが……感じ方が人それぞれ過ぎて難しいですよね」
「うちの会社に限って、よそよそしいってことはありえないって思うんだけどなぁ。上司の立場って言えば、私ら役員の他にグループ長でしょ? そんな風に周りとの距離が遠い人っているっけ」
「いやいや、そういう決めつけは良くないよ。なぁ、俊郎」
「そうですね。こうして相談してくださってるくらいだから、当人は距離を感じてしまっているのでしょう。やはりちゃんと誠実に対応しなくてはなりません」
 相談者からの短い文章から状況を分析しながら、社内の「部下」のことを考えながら三人で知恵を絞って返事を書いた。
『たまには食事をしたり、お酒を飲んでみるのも良いと思いますよ。相談者さんも自信をもって声をかけてみましょう』
 良いんだろうか。これで。
「なんか恋愛相談の回答みたい」
 田畑さんが苦笑する。
「そう言われたらそうですね」
 とりあえず、相談者にはそれで様子を見てもらい、相談窓口からは「部署内でのコミュニケーションを促す」という対策をとることにした。
 緊急性がないとはいえ、この対応、本当に良かったんだろうか?
「では、議事録と回答については、私の方から鎌田君に共有しておきます」
 疑問点を残しながら、それぞれの仕事に戻った。

 午後から出勤してきた遥がコンタクトレンズを外して手鏡を見ている。
「ヘイゼルって言うらしいよ」
「聞いたことありますね。たしかヘイゼルナッツが由来だったような」
「それそれ。色んな色が混ざって角度によって違って見えるんだって」
 既に鏡を片づけてパソコンの画面を見ながら作業に手をつけているその横顔は、アルバイトの大学生。
 遥はとても印象的な金色の瞳の持ち主なのだが、その時々で少し色が違って見えることもある。金色はともかく、ヘイゼルという色合いの瞳は、日本人にも僅かながら事例はあるらしい。
「今日、友達がカラコン入れてきてて、ちょうどその色がヘイゼルだったんだ。『お前もヘイゼルのコンタクト似合いそうだな!』って言われて、嘘ついててゴメンって思っちゃった」
 そう言って、少し困った顔を見せた。
 明るい茶髪に整った顔立ちは、確かに金色の瞳が似合う。
 背は私より少し低いがスラリとした体形で、かなりイケメンの部類に入るところに瞳の色の希少性まで加算されると、周りも流石に大騒ぎだろう。それに、優しい性格の持ち主でもある。
「黒いコンタクト入れてるのはバレなかったんですか」
「バレないように目線外してたよ。目を凝視されるのは恥ずかしいもん」
 堂々としているようで、実はシャイな一面もあるようだ。
「遥君の瞳、詠んでいる時は鮮やかに輝くんですよ」
 画面を見たまま会話していた遥が、こちらを見る。
「え、発光するの?」
 やはり真っ先に目が行くのはその瞳。
「うーん……発光とは違う感じですね。なんて説明したらいいのか判りませんがとても綺麗だと思いますよ。今度詠んでる時に写真か動画撮りますか」
「ちょっと見てみたいって思ったけど、記録として残すのはなぁ」
 つまらなそうにため息を漏らす。遥が詠んでる横でカメラを構える自分の絵面は……なかなかに滑稽だ。やめておこう。

「あ、そうだ俊郎さん。七夕の日なんだけど」
「七夕ですか?」
「うん。本業の方でちょっと」
「あぁ、幻想錬金術師の方ですね。最初に話を聞いていますし、暦のイベントなら仕方がないです。少し残念ですが」
「仕事立て込んでる?」
「例年、立て込む日なんです。できれば遥君にも参加してほしい所でした」
 弊社・株式会社メディアスタートは若者多めのIT系ベンチャー企業。事あるごとにイベントを開催するため、総務も担当するこの人事部はそれなりに忙しい。
「参加してほしかったって、何に?」
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