第30話

文字数 1,241文字

 「評価で飯が食えるのかってことですか?」
 「そうです。」
 「たぶん大丈夫だと思います。例えば、貧しくて食えない人がいて、しかし、誰もその事を知らない。もしくは、嫌な奴。どちらにしろ世間の評価が低い人だとすると、たぶん飢え死にして、世界から無かったことにされる。そうですよね?」
 「はい、そうです。私がそうでした。無かったことにされました。」
 「・・お気の毒な境遇にいらっしゃったのですか?嫌でなければ、少しお伺いしたい。」
 池上は声のトーンを低くし、眉間に皺を寄せ、シリアスに話を聞く態度を示した。寧は戸惑いがあったが、しかし、若草にも話したことだし、一方的に恩人だと思っている池上に自分の置かれていた境遇を知ってほしかったという思いもあり、ゆっくりと話し始めた。

 長原寧は母親と祖母と弟と四人で暮らしていた。父親は顔を見たこともなかった。住まいは古い市営住宅。小学校に上がる頃には、祖母は半分寝たきりになっていた。母親は朝早くから働きに出て、夜遅く保育園に預けた弟と帰ってきていた。朝起きると、パンが二枚用意されていた。一枚は自分、一枚を意識が混濁している祖母に食べさせる必要がある。
 「あうあー」
 祖母がパンを食べるときに突然大きな声を出して、驚くこともあったが、そのうち慣れてきた。「餌をあげないと死ぬから、餌をあげる」というわかりやすい単純なルールに則ってパンを千切っては祖母の口に放り込む。途中、唾液まみれの噛み砕かれたパンが口の端から溢れていくが、それを小さな手のひらで祖母の口に戻していく。生暖かい唾液が気持ち悪いとは言ってられない。溢れた食べ残しのパンがシーツに残っていたら、母親に叩かれるからだ。手を洗い、唾の匂いが残ってないか確かめて、寝たきりの祖母を残して学校に行く。朝から重労働をして学校に行くので、いつもぐったりとしているし、友達が楽しそうにしていても、何か、他所の出来事のように見えて、そばに寄ることができなかった。そのため、長原寧は学校という社会組織では存在が薄く、評価される対象人物には成り得なかった。
 無口に学校での時間が過ぎて、終わるとすぐに家に帰る。家に帰って祖母の様子を見る。眠っていれば一安心だが、起きていると「あうあー!あうあー!」と大声を上げて、体をよじらせ、暴れることがある。半分寝たきりの老婆とはいえ、六歳の寧よりは大きな体と強い力を持っている。急に暴れ出し、首根っこを押さえつけられることもあるし、髪の毛を抜けるほど引っ張られることもある。「おばあちゃん、やめて!」と言えど、「あうあー!あうあー!」としか返ってこない。怖くて仕方がないが、世話をするのは寧の仕事と母親から言われてきた。祖母は自分でトイレに行くことはできるが、大便を便器にすることができないこともあるし、ベッドに寝たまま小便をすることもある。その片付けは、飼育係となった寧がしていた。
「ただいま、おばあちゃん、どうだった?」
「おかえりなさい。ちゃんと寝てたよ。」
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