第68話

文字数 1,323文字

 「寧ちゃん、いや、すっかり、ひめにゃんだね。調子はどうだい?」
 若草が愉快そうに問いかける。しかし、寧は若草がいつもより緊張していることを気がついてしまう。何か背後を気にかけているように見えた。顔は笑っているが、目の底が紫色を帯びている。だから寧は笑顔を作るのに少し時間がかかった。その間を若草は気がついて、ほんの一瞬だけ真顔になった。しかし、二人は大きな川の流れを止めることができないように、ただ、何も出来ず見ているしかなかった。だから一瞬の停止後は、その前の続きが再生される。初めてのステージを目の前にした緊張感と、気持ちの昂り、祭りの前の高揚感を帯びた全体の雰囲気に飲まれて身を任せている状態に戻った。だけど、二人は危機感の共有はできていた。
 「寧ちゃん、多分ないとは思うけど、本物が出てきて、こんにちはって落とし穴があるかもね。目の前のご馳走がガラスケースに入ってしまったら、そりゃ、ざわつくだろうから。」
 「若草さんも、勢いの無茶が多いから、避けるのに傘が必要かも。」
 「ひめ寧にゃん、傘じゃ、ミサイルは止められないよ。」
 「えっ、何をしたんですか?」
 「これからするんだ。いや、とっくに終わっているかも。まあ、お互い気をつけよう。」
 含んだ笑みを浮かべて若草は池上のところに戻っていく。寧は二回目のステージリハーサルに入る。本当は本番のみだったが、ここでヒマキンがプレゼンターとしてリハーサルに入った。代々木体育館の客席に明かりはついてなく薄暗いが、その広さは夜の海のように無限に思われた。そこに数時間後、いいねを持った選ばれた観客が埋め尽くす。ヒマキンは会場内のいいねキングに他ならない。一番なのだ。だが、観客のお目当ては、ひめにゃんである。自分は脇役だ。初めて大勢の前に生で出るいいねキングがプレゼンターとして主役を迎えるのだ。ヒマキンはたった二行の台本を読む。あとはステージ横で見守って、ひめにゃんの歌と踊りが終わったら駆け寄って、一緒に会場に向けて手を振る。そして顎を出す。馬鹿なチンパンジーの役をしないといけない。カレーに対する福神漬けみたいな付け合わせ。ヒマキンは轟音の演奏の中、スポットライトを浴びて踊るひめにゃんに対して怒りが湧いていた。これに会場の歓声が、熱気が加わると思うと、嫉妬に狂いそうだった。俺の方が面白いことができる、俺の方が人気がある、俺の方が・・
 「ヒマキンさん、顔が怖いですよ。昨日の約束思い出してください。」
 急に耳元から優しい声が聞こえた。タクミがいつの間にかヒマキンのそばに寄り添っていた。ヒマキンは取り繕うように振り向くと、タクミの顔が目の前にあった。タクミは薄暗い中、穏やかな目をしていたが、泣いたように潤んでいた。その潤んだ瞳にステージの光や踊る姫ニャンがはっきりと写り込んでいた。ヒマキンには、それがとても綺麗に見えた。何か心が洗われるようで、その瞳の美しさに心を奪われたが、その瞳の中で踊っているひめにゃんに対して敗北感を覚えた。負の感情がヒマキンに溢れたのを見越して、タクミはヒマキンの背中にそっと手を当てた。人の体温、暖かさがヒマキンの、芦田宏明の憎悪でつっぱった背筋を緩めた。
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