第1話

文字数 1,072文字

 人は雑踏に紛れ、ぬくぬくとした匿名を手に入れるが、同時に「ここにいるんだ!」って他人に気がついて欲しくなる。だからややこしくなる。

 「私が総裁になったからには、日本の国を、今までのままではなく、新しく変えていきたいと思っています。」
 街の家電量販店で数百と並ぶテレビから聞こえる新しい総理大臣の演説を、にやけた顔でじっと見ている男がいる。スラリと背が高く、髪はふさふさ、足が長くて、スタイルも良い。顔が小さく、鼻が高く、大きな目をしている。歳の頃は一見、二十代後半、よく見ると三十代半ば、いやいやどうして四十代、イケメンだが、首の周りの肌は、少し弛んで、笑顔によって作られた皺が刻まれている。どうやら五十代のイケおじといったところか。
 「いいね、今度の総理大臣、何しろ若い。それだけで評価できる。若いってことは、未熟でイキっているから、今までみたいに刷り直しの政策を嫌がるだろうね。これは、面白いことになる。」
 「そうですね若草様、ところで、こちらのテレビは最新型で画面も大きくて、はっきりと映し出すことができるんです。柄澤総理の顔も、ほら、くっきり見えます。」
「もしかして、店員さん、はっきりなんでも見えるのがいいって思っている?」
怪訝な顔を一瞬するテレビ販売員の南田。爽やかなお客さんかと思ったら、どうやら違ったようだ。しかし、雰囲気からするとお金を持っていそうな感じだ。こんなハンサムな若く見えるおじさんが貧乏だってことはないだろう。
 「と言いますと?」
 若草は呆れたように笑みをこぼす。
 「店員さん、俺は聞いているの、はっきり見えたほうがいいかって。答えを求めているのに、それを誤魔化そうって、逃げようってことをするのは、考えることを拒否しているみたいだ。なのに、考えているフリをしている。今のビジネスの世界に、逃げて誤魔化して笑顔で解決なんて、もうないからね。そんなのは旧時代だ。せっかく、客の俺が提案のヒントを与えているのに、考えずに人柄で解決しようとする。それでは評価を得られないよ。」
 言葉で切り捨てられた家電売り場の店員、南田は虚を突かれ、言葉を失い、意識さえも飛ばそうとしていた。「欲しけりゃ黙って買えばいいんだよ!要らないのなら帰っちまえ!」と心の中で悪態をついてみるが、誰からも評価をされそうにない。同僚や同業者の少数の「いいね」があるかもしれないが、少数の評価を取れば、多数の評価を失ってしまう。若草に試されていることを今更に理解した。並んだテレビでは国会中継が流れており、真剣な表情の若い総理大臣が演説をしている。
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