第36話

文字数 1,203文字

「若草さん、池上さんって信用できますかね?」
「池ちゃんのことは信用しないと始まらないからね。」
「・・だったら、始まってしまえば、信用しなくてもいいってことですか?」
「寧ちゃん、鋭くなってきたね。でも、それは口に出さない方がいい。不信の態度だけで十分だ。不信感を相手に見つけたら、相手に対する興味が増す。興味が増すと理解が深くなる。影響力を持てるんだ。でもその時に間違った印象を与えると敵として警戒されるし、排除されてしまう。気をつけないと良い評価がまるっきり裏返って、アンチになる。憎悪の対象になるから、何やっても腹が立ってくる。そうなると消さないと気持ちの決着がつかなくなる。」
「それって、精神年齢低いですよね。嫌いな人は理屈なく嫌いって、子供の喧嘩の延長線上みたい。」
「・・だから怖いんだよ。」
若草と寧は早朝の消費しきったような繁華街を歩いている。道端で酔いつぶれている人もいたし、カラスのように冷えた空気を無表情で楽しんでいる人もいる。薄い青色がかかった景色が熱を奪われて広がっている。もう少しでお日様が顔を出す。太陽を待ち侘びる気持ちになった寧は「雨上がり」の鼻歌を始める。若草は聞き覚えある鼻歌に、曲名を思い出そうとする。
「寧ちゃん、今の曲ってなんだっけ?」
寧は自分が大好きなものを知らない人が隣にいることにイラついた。いい加減、私が好きな曲ぐらい覚えてもいいだろうに!
「雨上がりですよ。池上さんも知らなかったんで、二人とも私の中で評価が駄々下がりですよ。」
「ははは、そうなのか?まあ、俺も池ちゃんも、音楽なんて興味ないんだろうな。思い入れがある曲なんて、俺には無いよ。だいたい、思い入れがあるものが、無いのかもしれない。だから、俺が死ぬ前にそばにいる人は楽だろう。死ぬ前にあれが食べたいとか、あれが見たいとか、全くないから。会いたい人すらいないかもしれない。」
「だったら、死ぬ前にそばにいる人はいないから、大丈夫そうですね。」
「おいおい、冷たいこと言うなよ。俺は寧ちゃんがいるもんだと思ってたから、何にもしなくていいよって、言いたかったんだけど。俺たちは一緒に住んでいるんだから、家族みたいなもんじゃないか!」
「ただの居候じゃないですか。でも、お金入れてもらっているから、私は文句は言えませんけどね。お母さんの入院費も手伝ってもらってるし。」
「それは気にしなくていい。俺は寧ちゃんを有能な秘書として雇っているつもりだから、住居付きの事務所と優秀な人材に対しては、惜しまず払うよ。手当、増やそうか?」
初めて人として評価をしてくれた若草に対して、寧は感謝の気持ちが一杯であることは違いなかった。私の惨状を知って、色々と動いてくれた恩と、これまでの私に対して、良い評価をしてくる若草は、自分が自分であるために必要な人と寧は、若草のことを評価していた。お互いが評価しあって、信頼できる関係になっている。
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