第47話

文字数 1,337文字

ヒマキンとの極秘面談を終えた沢田賢治は高揚感一杯で、新宿の夜の街へ飛び出した。夏になりかけていて、ムッとした熱気を帯びた空気の中に、人の匂いが強烈に漂い、タバコとか下水のツンとした匂いもした。薄暗い街に恐怖はなかった。あるのは希望に満ちた気持ちだけだった。夜の街の光は瞬いていたが、それに対して親しみさえ感じていた。それは暗闇でも人は生きている、何かをしている証拠なのだ。だから真上の暗闇は、真の暗闇ではない。街から跳ね返った光がうっすらと層になって、白く世界をボヤかしている。ガヤガヤとした雑踏こそが心地よい夜だった。しかし、学生服のまま、ここにいたら補導されてしまう。早く駅に行って、西に帰る電車に乗らないといけない。夥しい雑踏、行き交う人、誰も知らない、でも親近感がある。数千人の人と一瞬同じ空間にいる。それが順繰り変化している。薄暗いけど、だからこそ、見えるものがある。
「賢治?」
聞き覚えのある声が人の波から耳に入る。沢田賢治は反射的に振り返った。こっちを見る女性、あれは、沢田綾子、母親だ。なんで、こんなところにいる?お互いがそう思っている顔をしている。賢治の母である綾子は理解できなかったが、綾子の子である賢治は、母が新宿駅にこの時間にいることを理解できてしまった。自分が今までいたビルと同じような場所に行くに違いない。問いただそうか?いや、それは悍ましい。母親がデリヘルで働いていることは薄々気がついていたが、家からだいぶ離れた、匿名で紛れるにちょうどいい新宿にいることは、あまりに現実的すぎた。嫌な予感が現実になって目の前で吹き出している。賢治はそばに寄ることなく、気が付かない演技をして、人の流れに任せて改札口に向かっていく。綾子は追っては来なかったが、賢治の事を、ずっと見ていた。
明るくない電車の中、大勢と揺られて、賢治は家に帰っていく。車輪とレールが打ち合う音が足元から少しだけ漏れるように聞こえる。ドアが開く音がして、遠くで誰かが話している声が聞こえる。内容は職場の昔話っぽい。車窓には街の光が塊になって過ぎていく。あんな街に母親が薄汚れた冒険に出かけたのだ。でも、それは、自分が生活するためのものなんだ。さっきまでの高揚感はグチャグチャに潰れてしまった。が、絶望すればするほど、光は眩しくなる。ヒマキンと若草、そして長原寧がいた。三人は仲間として迎え入れてくれた。そこにしがみついて、とにかく生活費を手に入れたい。
「いいね!じゃあ、飯食えない。」
電車の中で思わず声を漏らす賢治。ひめにゃんが有名になればと思っていたが、これがきっかけで、ヒマキンみたいに大金持ちになることだって可能なのだ。僕は選ばれたのだ。ヒマキンの動画なんて、本当は面白いと思ったことがないけど「いいね」をたくさん持っているから憧れてはいた。ひめにゃんが認められるのと、ヒマキンに対する自分の評価はべつのところにある。でも、それは手段として近道だから、利用できるのなら利用したい。
賢治の頭の中は混乱していた。だが、するべきことと、成りたい自分がはっきりしたので、漠然とした絶望は消えていた。母親のあんな姿を見たって、それは自分の行動でどうにか変えることができるとさえ、思っていた。
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