第76話

文字数 1,291文字

 長原寧は、白いエナメルのミニスカートとノースリーブを着て、揃いの長手袋をしている。紫色のショートボブのウィッグを被って、見た目はまるっきりひめにゃんになっている。だが、中身は長原寧のまま、きらめくステージの向こう、薄暗い観客席の人の海をじっと眺めている。真っ黒の海は、ひめにゃんへの期待で満ちている。ヒマキンの紹介が終わった。もう、出ないといけない。足がすくむ、こんなに大勢の前で歌うなんて、私に出来るだろうか?見回すとタクミ先生が心配そうにこっちを見ている。若草と池上も揃ってこっちを見ている。味方がいると思ったら、少し元気が出た。大きく息を吸い、お腹の中に空気を貯める。体を退け反らせて、ステージの天井を見上げる。ライトと暗闇だけだったが、そこに雨上がりの空を想像する。もう、始めても良いんだ。
 「はーきゅいーん!」
 ひめにゃんは大声を張り上げて、空気を裂いた。その途端、会場が歓声に沸く。小さな自分が大きな世界に挑む。でも、私は、張り合っていける。なにしろ、評価があるんだ。みんなが応援してくれている。わたしは「いいね」の塊なのだ。そう思って、ステージに飛び出す。スポットライトは眩しく、そこだけが世界の注目を集めるように出来ていた。そこに立てるのは一人だけ、そう、特別な人間だけだ。
 「みんなー!今からひめにゃん、歌うけど、その前に、私を変身させて!さあ、傘を開いてね。せーの!」
 小さな光が揺らめく会場から一斉に、小さな光が消えて、バッと傘が開かれた。その際に空気の波がステージまで届いた。ひめにゃんの髪が揺れる。ひめにゃんとなった寧は、もう、何も考えてなかった。ステージの真ん中に行って、合図とともに歌い始めるんだ。踊り始めるんだ。注目の的になるのだ。
 ひめにゃんがセンターに立つと同時に、ステージの端に人影が現れた。警備員がステージをよじ登ってきた。何か不測の事態が訪れたのかと、ステージ上のスタッフがひめにゃんを守ろうと近づいた。だが、その警備員はひめにゃんの方に向かわずにステージの袖をすっと走っていく。
「おい、警備員、もうはじまるのに、何やってんだ!」
スタッフの一人が少し大きな声を出す。会場にはリズムと共に一分間のカウントダウンの音が鳴り響いている。観客にはその声は聞こえていない。ひめにゃんは警備員が自分の方に来ない事を確認して前を向き直す。心を落ち着かせ、ひめにゃんの世界を頭の中に広げていく。これは祖母や母の介護に追われ、中卒でパートをしていた長原寧のステージではない。アニメが好きで、古い車に詳しいひめにゃんという女の子のステージなのだ。ひめにゃんはみんなに歌を聞いてほしい、踊る姿で元気になってほしいと思う可愛い女の子。長原寧とは別人物なのだ。寧は、ひめにゃんに成り切る事で、これまでの負債を消し去ることが出来るような錯覚を覚える。わたしはひめにゃん、人気者のアイドルです。みんなが歌を聞いてくれる。みんながひめにゃんに期待している。ひめにゃんの評価は絶大だから、決して嫌われることはないし、存在しない人として扱われない。ここで歓迎される人なのだ。
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