第79話

文字数 1,282文字

それはラクダになるべきだ

「危機は最大の好機になるんだ!」
実業家が好きなセリフ、柄澤友蔵も同じくだった。しかし、この状況では虚しささえ宿る。秘書の田代は「今更何言ってんだ?」と言いたかったが、柄澤がこの危機を察知していたことに間違いなく、文句も言えない。
「いいね」がある瞬間からお金と同じ価値を持って、勝手に流通し出して市場に「価値交換のための価値」が溢れてしまった。溢れてしまうと、価値は、その価値を下げる。だけど、持っている人は持っていて、持ってない人は持ってないままに違いはなく、持っている人たちは流通する価値交換券、「お金」と「いいね」を価値が崩れないものに交換し始めた。土地、マンション、高級車、金。それは日本だけではなかった。日本で起きた価値の雪崩が世界に伝播し始めていた。各国は貨幣価値の崩壊を受けまいと対抗策を色々と打ち出したが、「いいね」が価値交換出来るとなると、大勢が日常しがみついていたSNS、その身近なものが個人の資産になるということで、話題になり、使えるとなると、すぐに広まっていった。
自分の能力、人柄、心遣いみたいなもので溜まった「いいね」が価値あるものと扱われるようになると、何かしら、承認欲求が満たされて、自分自身が世界に対して価値があるものという錯覚を呼び、多くの人たちがそれに従うようになっていった。
国家が関与しない資産が民間で勝手に作られて、それが資産として流通していく。国家は個人のパーソナリティーまでに関与できない。いいねの流通に対して、税金を取るために新しい法律を作っても、管理外で生まれた新しい価値の流れを捕まえることができない。それに、利用者にとっても、自分が作り出した「いいね」という評価、資産を国家が管理することは、心情的に許されないことに感じられる。「これは自分の評価だ。それに対して国家が口を出すなんて許せない。人権だ!人権だ!人権だ!」こういった具合で、政府が口を出せない状況になっているし、政府も評価が価値判断基準となるのなら、評価を下げると言うことは、国家の威信を減らすことになると慎重に動かざるを得ない。政治家たちは、政党は、何もできないまま、嫌われないように無難な政策を小出しする口頭プロレス集団に成り下がってしまった。
「田代、俺は総理大臣、国家のトップとして、この状況をなんとかしたい。なんとかするためには、影響力を持つしかない。それも、確固たる影響力だ。この俺を、男柄澤を絶対的に評価する数を増やすしかない。そのためには、地道に、その絶対的な評価を積み重ねる必要がある。そのために必要な事を一歩ずつ始めたいと思う。協力してくれ!」
柄澤友蔵は真摯な目つきで田代に訴える。田代は嫌な予感しかしなかったが、こうなると柄澤を止めることができないことは長年の付き合いで理解していた。総理の部屋、大きな机と本棚、長いソファーが対で並んでいて、大理石のテーブルが置いてある。大きな椅子から立ち上がった柄澤は傍に立っていた田代に近づき、ネクタイを緩め始めた。柄澤はネクタイを放り投げると、今度は上着を脱ぎ捨てた。
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