第8話

文字数 1,296文字

 「池上さん、今日は足元が悪い中、足を運んでいただき、ありがとうございます。」
 遅れてきたのに若草は、まるで出迎えたように余裕の笑みを浮かべて挨拶をする。池上は、いきなりの若草の屈託ない様子に飲み込まれてしまう。座って待っているのに、招待を受け、今着いたかのような気持ちになってしまった。
 「お待たせしてすみません・・いや、待っていたのは僕だ。」
 池上は立ち上がりながら返答し、若草に頭を下げていた。池上は評価という権威をそれなりに持っていたつもりだったが、自分は胸を張る立場だと思っていたが、若草の颯爽とし、堂々とした様子に、立場の逆転のようなものを感じた。だが、それは、整った顔の若草が柔和な表情を浮かべることによって、それが正しい状態になってしまった。池上は警戒ではなく、緊張した。若草の存在が、何か、高貴なものに感じられてしまう。そういった人に、考えてみれば、これまで会ったことがなかった。確かに有名人には会ったことは仕事柄あったが、それは、どういった活躍をしたか、どういった能力があるか知った上での、敬意なり、影響力などを理解していたが、若草は、何か溌剌とした雰囲気があり、近づきたいと思わせる魅力があった。
 「まあ、座りましょう。池上さんには、初めてあったような気がしませんね。」
 ハンサム中年の若草が興味を持って池上に向き合っている。池上は、それが浮足立つように嬉しく感じた。胸が高鳴り、外は雨だが、若草の光が強すぎて、世界に彩が戻ってきたような錯覚さえしそうだった。池上は、もし、自分が同性愛者だったら、若草に身を任せてしまいたいと思うぐらい、ひどく惹かれた。池上は、評価の仕事で自信をつけて、淀みなく誰とも緊張せずに話せるようになっていたのに、若草を目の前にして、十年前の小心者に戻ってしまったように、すっかり緊張してしまった。
 「わ、若草さん、わ、私も初めてあったように思えません。」
 「突然だから驚かせてしまったかな?よくあるんですよ。私が唐突な人間だから、お会いする方が、話すと落ち着かなくなるのを。」
 「・・違いますよ。若草さん。ってか、分かって言ってますよね?自分が強く人を惹きつけるってことを。池上さん、すっかり参ってるじゃないですか、良くないですよ。」
 ずぶ濡れで立ったままの長原寧が冷静に低い声で割って入る。池上は、若草に気を取られて、引き上げられた水死体のような長原寧の事をすっかり忘れていた。
 「・・大丈夫ですか?若草さんのお連れの方ですよね。」
 「長原寧と言います。丁寧の、寧が名前です。若草さんのブレーキ役をしています。」
 「そんなブレーキが濡れたら、制動力が落ちるからね。すいませーん店員さーん、タオル貸してもらえますか?」
 遠くでじっと見つめていたバイトの店員さんが、見つめていた事をバレてしまい、少しあたふたして、奥に引っ込んでいった。その様子を若草、池上、寧はじっと目で追う。見られる立場が逆転していた。見ていた側が、見られる側に変わると、やましさからか、それを誤魔化すように、行動が早くなる。すぐに白いタオルを抱えてバイトの店員が出てきた。
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