第38話 沈黙

文字数 1,129文字

 ……そうなのか。有希は、不思議な気持ちで、伸の顔を見つめる。
 自分は、もうずいぶん前から、元の自分とは別の人間になっていたのか。伸の話によれば、西原有希は、行彦と同化して、ユウという新たな存在になったのだ。
 言われてみれば、伸と出会ってから、自分は変わった気がする。以前は、人の気持ちを忖度することなどなかったし、こんなに泣き虫でもなかった。
 
 それは、伸に恋をしているせいだと言えないこともないが、伸を思う気持ちは、行彦も同じだろう。
 では、伸のことが好きでたまらないのは、有希ではなく、行彦なのか? そもそも、有希は行彦の生まれ変わりなのだし、では、自分が嫉妬しているのは、自分自身なのか?
「訳がわからなくなったよ……」
 そう言いながら、また涙がぽろぽろとこぼれる。それがどういう涙なのか、もう自分でもわからない。
 
 伸が言う。
「ユウ、ごめん。君が混乱するのは、よくわかるよ。俺の言っていることが信じられない気持ちも。
 俺が行彦と愛し合ったことは本当だし、君と行彦が生き写しであることも本当だ。でも、君が記憶を失った今、それを知っているのは俺だけで、証明するすべはない」
「違うよ!」
 有希はあわてて言う。
「伸くんのことを疑っているわけじゃないよ。ただ、自分が誰なのか、今感じているのが、誰の気持ちなのか……」

 伸が、苦しげな顔で言った。
「俺は、行彦を思い続けていたのと同時に、大胆で無邪気な有希のことも、とても愛しいと思った。あのときは気づかなかったけど、もしかするとそれは、行彦とは関係ない、新たな恋だったのかもしれない。
 でも、あのときは深く考えることもなかった。今も、二人とも愛しているし、ユウのことも愛している」
 そこで、伸はふっと笑った。
「俺も、訳がわからなくなって来たよ」


 二人の間に沈黙が訪れた。口をつけないままのコーヒーは、多分もう、冷たくなっているだろう。
 あぁ……。有希は思う。今日は、待ちに待った日曜日で、たくさん愛し合って、一緒にシャワーを浴びて、伸の手料理を食べて、お揃いのセットアップを着てベッドに入り、朝まで、伸と寄り添って眠るはずだったのに……。
 こんなことになったのは……。そうだ。生野のせいだ。あいつ……。
 
 そこで有希は、ふと思いついて、伸に聞いた。
「今日、生野がレストランに行ったんでしょう? まさか、沙也加さんたちの前で……」
「いや。それは大丈夫だったよ。裏口にゴミを出しに行ったときに声をかけられたんだ。
 言葉も丁寧だったし、とても礼儀正しかったよ」
「それならいいけど、何度か教室で、きわどいことを言われたことがあったから」
「ふぅん」
 伸が微笑む。
「彼は、本当にユウのことが好きなんだな」
「そんなの、困るよ」
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