第82話 泣き虫

文字数 1,066文字

 伸が退院した夜、有希はメッセージを送った。
――退院おめでとう。っていうほど長い入院じゃなかったけど。体調は、もうすっかりいいの?

 すぐに返信が来た。いつもの伸らしい文面だ。
――ありがとう。体調はバッチリだよ。明日から仕事に行く。

――よかった。明日の夕方、部屋に行ってもいい? いつもそうしていたんだけど。

 少しドキドキしながら待っていると、返信が来た。
――もちろん。待っているよ。

 よかった。有希は胸を撫で下ろしながらメッセージを打つ。
――じゃあ、明日。おやすみなさい。


 翌日、部屋に行くと、伸は、今までと同じように、穏やかな笑顔で迎えてくれた。それだけで、有希は泣きそうになってしまう。
「さぁ。上がって」
 いつもならば、有希は、すぐに伸に抱きついて甘えるのだが、さすがにそういう気持ちにはなれない。伸は、いつものようにコーヒーを淹れ始め、それだけを見ていると、とても自分との記憶を失っているとは思えない。
 テーブルに着いて待っていると、やがて伸は、香りのいい湯気が立つカップを目の前に置いてくれた。伸も、向かい側の椅子に座る。
 
「どうぞ」
 そう言いながら、伸はカップを口に運ぶ。有希も一口飲む。カップを置いて、伸が言った。
「病院で君に言われた通りに、あの後、自分のスマホの中の画像やメッセージの履歴を見たよ。この部屋に戻って来たら、君のものやお揃いのパジャマなんかもあって、俺たちが、どれほど仲睦まじく過ごしていたか、よくわかった」
 有希は、上目遣いに見ながら言う。
「それで、伸くんはどう思ったの?」

「とても不思議だと思ったよ。こんなに仲良くしていたのに、どうして、君のことだけすっかり忘れてしまったんだろうって。だけど」
 有希は、伸の話を遮る。
「ごめん、伸くん。話の途中で悪いけど、僕のこと、『ユウ』って呼んでくれないかな」
 仕方ないことだとわかっているが、他人行儀に「君」と呼ばれるのは切ない。
「あぁ、そうだね。えぇと、そう。記憶が失くなってしまったのはとても不思議だけど、ユウに聞いて、教えてもらえばいいかなって。ユウがそう言ってくれたから」
「伸くん……」

 有希は目元をぬぐった。うれしいのに涙が出てしまう。伸が、心配そうな顔をして言った。
「大丈夫?」
「うん。僕、泣き虫なんだ。伸くんが僕のことを忘れちゃったから、もう付き合えないって言われたらどうしようって、すごく心配だった。
 前に一度、そう言われたから……」
「そんなひどいことを?」
「そう。悲しかった。でもそれは、伸くんの本心じゃなかったんだよ。僕のためを思って……」
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