第81話 大切なこと

文字数 1,050文字

 だが、有希は思う。自分は、伸のことを諦めたりしない。諦めなければならない理由がないからだ。
 有希は、鞄の中からスマートフォンを取り出した。画像を表示し、伸に差し出す。
「これを見て。ここに、伸くんと僕の思い出がたくさん詰まっているから」
 スマートフォンを受け取った伸は、ゆっくりとスワイプしながら、画像を見始めた。そこには、今まで二人で撮った様々な写真が大量にある。
 ツーショットや、お互いに送り合った自撮り、温泉に行ったときに撮ったもの。中には、伸が眠っているときにこっそり撮ったものや、少々セクシーなものもあるが、この際、見られてもかまわない。
 
 スマートフォンの画面に目を落としている伸に、有希は話しかける。
「それから、二人でやり取りしたメッセージの履歴も残っているから、後で見て。伸くんのスマホでもいいし。
 それを見てもらえば、二人の関係がわかってもらえるはずだから」
 それに、部屋に戻れば、お揃いの部屋着や有希のシャンプーもある。それらすべてが、二人が愛し合っていることを証明してくれるはずだ。
 
 やがて、すべての画像を見終わった伸が、顔を上げて、こちらを見た。
「俺たちが恋人同士だっていうことは、よくわかったよ。ただ、正直なところ、戸惑っている。
 なんで、こんな大切なことをすべて忘れてしまったのか……」
 その言葉に、有希の胸にかすかな灯りがともる。何げなく言っただけかもしれないが、伸は今、二人のことを「大切なこと」だと言った。
 伸には、二人の関係を否定するつもりも、有希を拒絶するつもりもないらしい。
 
 さらに伸は言う。
「君は、行彦のことを知っているんだね。俺が話したのかな。それに……」
「それに、何? なんでも僕に聞いて」
 伸が、わずかに首を傾げながら言う。
「君は、行彦に瓜二つだ」
 有希は言った。
「そのことなら説明するよ。伸くんが疑問に思うことや忘れちゃったことは、これから、僕が全部説明する。
 ねぇ、それでいい?」
 伸がうなずいた。有希は、思わず微笑む。
「よかった!」


 伸の病状は、彼が高校生のときのように深刻なことにはならず、数日後には退院することが出来た。
 有希が思うに、伸のストレスの原因は、二人が出会ってから一年が近づき、また以前のように辛い出来事が起こるのではないかという不安だった。だが、すでにそれは、伸が倒れ、一部の記憶を失うという形で起こり、それと同時に、伸はストレスがあったことさえ忘れてしまった。
 つまり、伸の体調不良の原因は、すべて消え去ったということだ。
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