第72話 旅館

文字数 1,139文字

 やがて、夏が来た。今までは、夏は毎年、母と海外に旅行に行っていたのだが、今年は、伸の休暇に合わせて、伸と二泊三日で温泉に行くことになった。
 母に申し訳ない気がしていたのだが、母は、友人三人と、ヨーロッパを巡るツアーに参加することにしたという。母には母の交友関係があるのだから、申し訳ないなどと思うのはおこがましいと反省した。
 それと同時に、伸と旅行することを許してくれた母と、心おきなく旅行を楽しめることに感謝した。
 
 
「せっかくだから、うんといい旅館に泊まろう」
 部屋で、パソコンを使って情報を検索しながら、伸が言った。だが有希は、少し心配だ。
「でもさ、伸くん、まだ次の就職先も決まっていないし……」
 先のことは、フォレストランドが閉園してから考えると言って、伸は就職活動をしていないのだ。だから、無駄な出費はなるべく抑えたほうがいいのではないかと思うのだが。
 すると、伸が笑った。
「お金のことなら大丈夫だよ。長年、地味な生活を送って来たおかげで、それなりに蓄えはある。
 なんなら、しばらく働かなくてもいいくらい」
「へぇ。そうなんだ」
 堅実な伸らしいと思い、ほっとして、有希も笑った。
 
 
「僕たちって、どういう関係に見えます?」
 案内された旅館の部屋で、有希は、お茶を淹れてくれている仲居の女性に尋ねた。
「おい」
 伸が、あわてたように言う。女性が笑顔で言った。
「ご兄弟ですか?」
「僕たちって似てます?」
「そうですね。どことなく、雰囲気が」
「へぇ、そうなんだ。でも、残念。はずれです」
 伸が、不安そうな顔でこちらを見ている。有希は言った。
「僕たち、従兄弟同士なんです。二人で旅行なんて、初めてなんですけど」
「そうですか。どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」


 女性が出て行った後、恨めしそうに見ている伸に、有希は言った。
「伸くん、僕がなんて言うと思ったの?」
「いや……別に」
 有希はからかうように言う。
「恋人同士ですって言うと思った?」
「そんなこと、思ってないよ」
 有希は、茶菓子の包みを開ける。伸は湯飲みを両手で挟んだまま、まだ上目遣いにこちらを見ている。
「伸くんも、食べよう」
「うん……」

「ねぇ。仲居さん、兄弟に見えるって。伸くんは、親子とか、叔父と甥っ子とか言われると思っていたんでしょう」
「それはまぁ、十代で結婚していれば、ユウくらいの子供がいても、あり得ないことじゃないし」
 有希は、あんこの入った小さな餅菓子を口に放り込む。
「ん。おいしい。伸くんは自分のことをおじさんって言うけどさ、そう思っているのは伸くんだけで、全然そんなふうに見えないんだから」
「そうかな」
「そうだよ。ねぇ、これおいしいよ。伸くんも食べなってば」
「うん」
 ようやく、伸も菓子に手を伸ばした。
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