第79話 やっぱり

文字数 896文字

 次の日、有希は、学校の帰りに病院に行った。病室に行くと、伸はリクライニングさせたベッドに体を預け、窓の外を眺めていた。
「伸くん?」
 声をかけながら入って行くと、伸がこちらを見た。腕には、点滴のチューブがつながっている。
 有希は、自分で壁際のパイプ椅子をベッドのそばに持って行って腰かける。その様子をじっと見つめる伸は、黙ったままだ。
 
 有希は、自分から口を開いた。
「伸くんに何が起こったか、僕には想像がついているよ。伸くん、僕のことを忘れちゃったんでしょう?」
 伸が、有希の顔を見つめたまま、パチパチと瞬きをする。
「母から、君が、その、僕の恋人だということは聞いたけど……」
 あぁ、やっぱりそうなのか。有希は泣きたくなったが、ぐっとこらえて言う。
「行彦のこととか、潤子さんのこととか、レストランや中本さんたちのことは、ちゃんと覚えているんだよね。だけど、僕のことだけ……」

 伸が、申し訳なさそうに言う。
「ごめん」
 あぁ、駄目だ。やっぱり我慢出来ない。有希は、こぼれてしまった涙をぬぐいながら話しかける。
「僕と初めて出会ったときのことも、一緒に温泉に行ったことも、全部忘れちゃったの?」
「ごめん……」
 伸は悲しげな顔でうつむいてしまった。
 
 有希は、なおも溢れる涙をぬぐいながら、それでも、無理に微笑む。
「大丈夫だよ。僕も同じだったから」
 伸が顔を上げ、不思議そうに有希を見る。
「僕も、伸くんと出会ったときのこと、忘れちゃったんだ。それで伸くんに、たくさん辛い思いをさせた。
 だけど……二人とも忘れちゃったら、大切な出来事が、なかったことになっちゃう!」
 
 有希は、たまらなく悲しくなって、両手で顔を覆って泣いた。
 二人の運命的な出会いのことは、伸が事細かに話してくれたから、すべて知ってはいるものの、何一つ覚えていない。そのときの記憶が自分にもあったなら、どんなよかっただろうと、何度も思ったものだ。
 伸だけが覚えている真実だったのに、それが、伸の記憶からも消えてしまったなんて。その後の楽しかったことも、辛かったことも、数えきれないくらい愛し合ったことも、すべて伸が忘れてしまったなんて!
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