第29話 唇

文字数 1,029文字

 生野は、絶句したまま有希の顔を凝視している。
「その人には到底勝てないと思った。ずいぶん悩んだよ。だけど、それでも伸くんのことが好きでたまらなくて、諦められなくて……。
 伸くんは、その人のことは、多分一生忘れられないけど、それでもいいならって言ってくれて、僕は、それを受け入れたんだ」
 こんな話を生野にするのは残酷な気がしたが、今までずっと誰にも話せなかったことを初めて口に出すと、止まらなくなった。
 
「だからって、伸くんが僕を愛してくれていないっていうわけじゃないよ。伸くんは、とても優しいし、僕を大切にしてくれるし、ずっと一緒にいようって言ってくれている」
 生野が、わしゃわしゃと髪をかき回して言った。
「なんか納得行かないな」
「え?」
「お前、その人の身代わりにされてるだけなんじゃねぇの?」
「そんな、ことは……」
 痛いところを突かれた。それは、有希が、ずっと気にしていることだ。
 
 生野が言った。
「それでお前は、辛くないのか?」
「……辛いよ」
 だがこれは、逃れようのない運命なのだ。「彼」なくして、伸と出会うことは出来なかったのだから。
「チクショウ!」
 生野が、拳でベンチを叩いた。その顔が、苦しげに歪む。
「そんな話を聞いたら、お前のこと、諦められなくなるだろ」
「だから、こんな話聞きたい? って言ったじゃないか」
 有希は、こぼれた涙を乱暴にぬぐった。
 
 
 二人とも言葉が出ないまま、時間だけが過ぎて行く。やがて、乱れたままだった髪をかき上げて、生野が言った。
「決めた」
 そして、眼鏡を取って、有希の顔を正面から見つめる。
 眼鏡を外した生野を初めて見た。斜め上から街灯に照らされた顔は、頬に落ちた長いまつ毛の影が、まるで涙のようだ。
 
 見つめ返す有希に、彼は言った。
「お前のこと、やっぱり諦めない。いや、諦められない」
「そんな……困るよ」
「お前が幸せなら、それでよかったんだよ。今日のことをいい思い出として、気持ちを切り替えるつもりだった。
 だけど、お前が辛い思いをしているのに、放っておけない」
 
 有希は、溢れた涙をぬぐう。
「放っておいてくれよ。何を言われても、生野の気持ちには答えられないよ。
 僕は、伸くんのことしか……」
 そのとき突然、両肩を掴まれた。生野の顔が近づいて来て、よける間もなく唇が塞がれる。
 生野の体を押し戻そうとするが、強い力に抗えない。無理やり唇をこじ開けて、舌が入って来る。
 駄目だよ……。有希の目から、涙がぽろぽろとこぼれる。
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