第30話 疼き

文字数 996文字

 生野の舌が妖しく動く。無意識のうちに、それに答えそうになっている自分に気づき、有希は、はっとして、思い切り生野を突き飛ばした。
 息を弾ませながら、生野が、呆然と有希を見る。すぐにでも、この場を立ち去りたかったが、涙がぼたぼたとこぼれ、嗚咽が漏れて立ち上がれない。
「ごめん……」
 生野の言葉に、有希は、激しく首を横に振る。
 
 有希はショックを受けていた。
 自分が愛するのは、生涯、伸一人だけ。体を許すのも、伸だけ。確かに、自分でも、少し呆れるくらい淫乱だとは思うが、それは、相手が伸だからであって、セックス出来れば誰でもいいというわけではない。
 自分のすべては伸だけのもので、ほんの少しでも、ほかの誰かに心がなびくことはないし、まして、欲情することなど絶対にあり得ない。 
 今まで、ずっとそう信じて疑わなかったのに、今、生野のキスで、体の奥が、切なく疼いているのだ。伸にしか触れられたことのない部分が。
 
 
 生野が立って行って、近くの自販機で飲み物を買って戻って来た。そして、有希に差し出す。
「これ、飲めよ。ごめん、悪かった。今のはひどかったよな」
 有希は、ペットボトルを受け取りながら、力なく首を横に振る。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかわからない。
 生野は、元の位置に腰を下ろして言った。
「お前とのことは、きれいな思い出にするつもりだったのに、自分で台無しにしちまった。俺は本当に馬鹿だな」
 自分もまた、生野を傷つけたのだと思い、苦しくて涙が止まらない。
 
 泣き続けている有希を見て、生野が心配そうに言った。
「おい、大丈夫か?」
「わかんない……」
 生野が、有希の手からペットボトルを取って、キャップを開けて再び差し出す。
「これ飲んで、少し落ち着いてくれ。本当にごめん」
 言われるまま、一口だけ飲む。冷たいスポーツドリンクが、喉の奥へと落ちて行く。
 いつまでも泣いていてはいけない。そう思うのに、一向に涙は止まらない。
 
 
 やっとなんとか落ち着いた頃には、ずいぶん遅い時間になっていた。
 生野が、家まで送ると言ったのだが、さすがにそれは断った。とは言え、途中までは同じ電車で帰ることになる。
 駅までの道を歩きながら、有希は生野に聞いた。
「僕の顔、ひどい?」
 子供ではあるまいし、泣き腫らした目で電車に乗るのは気が引ける。生野がにやりとする。
「いや。すげーかわいいぜ」
「だから……」
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