第80話 初めて気づいたこと

文字数 824文字

 有希が泣き続けていると、やがて、伸がつぶやいた。
「大丈夫? 有希、くん」
 あぁ。それを聞いて、有希はますます悲しくなる。そんな呼び方!
「違うよ。僕は『ユウ』だよ!」
 伸が悪いわけではないのに、こんな言い方はよくない。それはわかっているのだが、あまりにも悲し過ぎる。
 嗚咽を漏らしていると、背後で足音がした。有希は、あわててハンカチを取り出し、涙でぐしゃぐしゃになった顔をぬぐう。

「有希くん?」
 病室に入って来たのは潤子だ。有希は、いたたまれなくなって、顔を隠すようにしたまま出口へと向かう。
「有希くん。どうしたの?」
 声をかける潤子に背を向けたまま、有希は言った。
「ちょっと、トイレ」


 休憩所のガラスにへばりついて外の景色に目をやっていると、潤子がやって来た。
「有希くん。大丈夫?」
「はい……」
「伸に聞いたわ。あなたのことを覚えていないって。おかしなことがあるものね」
 潤子に優しく話しかけられ、ようやく収まったばかりの涙が再び滲む。
「伸も心配しているわ。病室に戻らない?」
 有希は、黙ったままうなずいた。
 
 一緒に中に入った潤子は、壁際に置いてあったバッグから財布を取り出して言った。
「ちょっと売店に行って来るわね。有希くん、ゆっくりして行って」
 二人きりで話をさせてくれるつもりなのだろう。伸は、潤子の背中を見送ってから、立ち尽くしたままの有希に言った。
「ユウ。俺は、君のことをそう呼んでいたの?」
 有希はうなずく。何か言ったら、また泣いてしまいそうだ。
 
 こうなってみて、初めて気づいたことがある。自分が記憶を失ったとき、伸がどれほど悲しい思いをしたかということを。
 伸は有希のことを愛していながら、有希のためを思って別れる決意をしたのだ。それが、どれほど辛い選択だったかということが、今ならば、身に染みてわかる。
 今までもわかっているつもりだったが、本当は、全然わかっていなかった。有希は今、体がよじれるような絶望と孤独感を味わっていた。
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