第64話 アンジェール
文字数 1,288文字
その日の放課後、有希は、少し緊張しながら、伸の母が経営するカフェ、アンジェールを訪ねた。
「いらっしゃいませ」
そう言いながら、こちらを見た彼女の顔が、ぱっと明るくなる。
「有希くん!」
その表情と、呼び方が「西原くん」から「有希くん」に変わっていることに気持ちの変化を感じ、内心ほっとしながら頭を下げる。
「こんにちは」
「こちらにどうぞ」
伸の母が、カウンター席をすすめる。今日は、ほかに客はいない。
そう言えば、去年、初めてここに来たときも、カウンター席に座ってオムカレーセットを食べたのだった。そう思いながら、隣の席に鞄を置いて、スツールに腰かける。
「あの、今日はビーフシチューを食べに来ました」
「あら、そうなの? うれしいわ」
優しい笑顔で言われ、有希もつられて微笑む。さっそく彼女は、てきぱきと作業を始めた。
ビーフシチューを待つ間、有希は店内を見回す。伸が小さい頃から続けているというカフェは、木のぬくもりを感じさせる落ち着いた雰囲気で、そのまま店主の雰囲気にも通じている気がする。
伸によれば、始めた当時は、世間はシングルマザーに厳しく、あらぬ噂を立てられたりしたこともあったそうだが、今は、主に地元の主婦たちの憩いの場になっているらしい。
それはきっと、料理の味だけでなく、伸の母の優しく穏やかな人柄によるものなのだろう。そしてそれらは、伸にも受け継がれていると有希は思う。
「お待たせしました」
カウンターの奥からトレーを持って出て来た伸の母が、目の前に料理を並べてくれた。深皿にたっぷり入った、湯気を立てるビーフシチューとライスとサラダ、それに、セットメニューの中から有希が選んだアイスティー。
「いい匂い!」
有希は、ビーフシチューの香りを吸い込む。
「僕、いつもは少食なほうなんですけど、いつかのオムカレーセットも、すごくおいしくて、ぺろりと食べちゃいました。これもおいしそう」
「お口に合うといいけど」
「いただきます」
さっそくスプーンでビーフシチューを掬って口に運ぶと、濃厚で豊かな味わいが広がった。
「おいしい!」
「よかった」
伸の母が、ほっとしたように微笑んだ。
「伸くんが作ったビーフシチューも……」
またも余計なことを言ったような気がして、スプーンを持つ手とともに、言葉も途中で止まった。今さらという気もするが、有希が日常的に伸の手料理を食べていることを知ったら、伸の母はどう思うだろう。
だが、遅かった。
「伸が作ったビーフシチュー、食べたの?」
そう尋ねられ、話を続けざるを得なくなった。自分は本当に軽率だと、心の中で歯噛みする。
「伸くんは、お母さんが作ったビーフシチューが一番好きだって言っていて、時間をかけて丁寧に作って……。すごくおいしかったし、その味が、この、お母さんのビーフシチューと同じだなって思って……」
なるべく余計なことは言わないように、気をつけながら話したつもりだ。伸のビーフシチューは、もう何度も食べているのだが、その辺りは、ぼかして。
なんでも思ったことを、すぐに口に出す癖を改めなくてはいけないと自分に言い聞かせながら。
「いらっしゃいませ」
そう言いながら、こちらを見た彼女の顔が、ぱっと明るくなる。
「有希くん!」
その表情と、呼び方が「西原くん」から「有希くん」に変わっていることに気持ちの変化を感じ、内心ほっとしながら頭を下げる。
「こんにちは」
「こちらにどうぞ」
伸の母が、カウンター席をすすめる。今日は、ほかに客はいない。
そう言えば、去年、初めてここに来たときも、カウンター席に座ってオムカレーセットを食べたのだった。そう思いながら、隣の席に鞄を置いて、スツールに腰かける。
「あの、今日はビーフシチューを食べに来ました」
「あら、そうなの? うれしいわ」
優しい笑顔で言われ、有希もつられて微笑む。さっそく彼女は、てきぱきと作業を始めた。
ビーフシチューを待つ間、有希は店内を見回す。伸が小さい頃から続けているというカフェは、木のぬくもりを感じさせる落ち着いた雰囲気で、そのまま店主の雰囲気にも通じている気がする。
伸によれば、始めた当時は、世間はシングルマザーに厳しく、あらぬ噂を立てられたりしたこともあったそうだが、今は、主に地元の主婦たちの憩いの場になっているらしい。
それはきっと、料理の味だけでなく、伸の母の優しく穏やかな人柄によるものなのだろう。そしてそれらは、伸にも受け継がれていると有希は思う。
「お待たせしました」
カウンターの奥からトレーを持って出て来た伸の母が、目の前に料理を並べてくれた。深皿にたっぷり入った、湯気を立てるビーフシチューとライスとサラダ、それに、セットメニューの中から有希が選んだアイスティー。
「いい匂い!」
有希は、ビーフシチューの香りを吸い込む。
「僕、いつもは少食なほうなんですけど、いつかのオムカレーセットも、すごくおいしくて、ぺろりと食べちゃいました。これもおいしそう」
「お口に合うといいけど」
「いただきます」
さっそくスプーンでビーフシチューを掬って口に運ぶと、濃厚で豊かな味わいが広がった。
「おいしい!」
「よかった」
伸の母が、ほっとしたように微笑んだ。
「伸くんが作ったビーフシチューも……」
またも余計なことを言ったような気がして、スプーンを持つ手とともに、言葉も途中で止まった。今さらという気もするが、有希が日常的に伸の手料理を食べていることを知ったら、伸の母はどう思うだろう。
だが、遅かった。
「伸が作ったビーフシチュー、食べたの?」
そう尋ねられ、話を続けざるを得なくなった。自分は本当に軽率だと、心の中で歯噛みする。
「伸くんは、お母さんが作ったビーフシチューが一番好きだって言っていて、時間をかけて丁寧に作って……。すごくおいしかったし、その味が、この、お母さんのビーフシチューと同じだなって思って……」
なるべく余計なことは言わないように、気をつけながら話したつもりだ。伸のビーフシチューは、もう何度も食べているのだが、その辺りは、ぼかして。
なんでも思ったことを、すぐに口に出す癖を改めなくてはいけないと自分に言い聞かせながら。